2018年9月30日日曜日

異境備忘録』の研究(1) -概略-

『異境備忘録』の研究(1) -概略-

 『異境備忘録』は土佐国・潮江天満宮の神官であった宮地水位先生によって著わされた幽真界の実相に関する記録ですが、文字通り備忘録で、先生が神仙界や諸多の幽境に出入りされた際の見聞の一端をメモ程度に記しておかれたものであり、記述が体系的でなく、首尾一貫性を欠き、内容も玉石混交であるのはそのためです。
 しかしながら、その記述の多くには幽顕交通された年月日、出発地点及び帰着地点、来迎の神仙の御神名や、赴かれた幽境の地理名称の詳細が記されており、先生が別に記された諸記録と相互に対照し、同類項を括り出すように観念を整理しつつ時間的な脈絡をたどっていくと、しだいに雲霧消散して秀峰を仰ぐとでもいうべき驚異の景観に接することとなります。
 幽界の極めて局限された部分的な消息を伝えた著作としては、平田篤胤先生の『仙境異聞』や参澤明先生の『幽界物語』、その他二、三のものがあり、この日本古学アカデミーでもご紹介して参りましたが、それらの諸記録と『異境備忘録』を対照する時、その高さと深さにおいて、別乾坤(けんこん)の根元的な新天地に接触し得る道福に恐懼する次第であります。 #0136【『仙境異聞』の研究(1) -概略-】>> #0231【『幽界物語』の研究(1) -概略-】>>

 水位先生が現界に生を享けられたのは嘉永五(1852)年の旧暦十一月八日(新暦では十二月八日)で、宮地家家牒には先生自ら「宮地再来(よりき)、嘉永五水壬子年十一月八日卯上刻、土佐国土佐郡潮江村上町古名縁所(字土居町西の丸と云)に生る、幼名政衛、諱(いみな)は政昭と号す、父は宮地常磐(ときわ)、母は同村熊沢弥平の二女なり」と記されていますが、ペリーが浦賀に来航したのがその年の七月八日ですので、日本国内は天下を挙げて物情騒然としていた頃でした。
(水位先生は二十一歳の時に名を「堅磐(かきわ)」と改められ、二十二歳では「故ありて水位と改む」と記されていますが、この「水位」という道号は少名彦那神によって命名されたもので、「水位星」という星の名に因(ちな)んだものであることを別の手記で明らかにされています。その後、三十歳で別に「中和(ちゅうわ)」とも号せられましたが、四十九歳にして「再来」と改名されました。年譜には「明治二十三年七月、大患に罹り殆ど死す。八月、堅磐を改名して再来と改む」と記されています。)

 水位先生は、父である常磐先生が神明に通じたことを地元の神官達に妬まれ、その讒言(ざんげん)によって神主職を追われたため、十二歳で家伝の潮江天満宮の祀職を継がれ、十三歳の正月五日には神祇管領卜部(うらべ)家の許状を得て任官し、宮地若狭(わかさのすけ)菅原政昭と名乗り、早くも堂々たる高知随一の大社に神明奉仕されました。当時の神職の級位は一等司業より八等司業まで分かれていましたが、水位先生の級位は一等司業で、この最高級位を有する祀官は全国でも指を屈する程度しか存しなかったのでした。
 また、先生は幼少より学問に対する造詣が深く、その探求する姿勢は学者肌で、神に仕える他は読書や著述に没頭されたことが伝えられていますが、厳父・常磐先生も水位先生の勉学には特に力を注がれ、十歳の頃より山内藩中の一流の学者や武人十八人に就いて文武両道を学ばされ、就学の種目は文学、漢学、習字、経書、史学、易暦書、医学、剣術、柔術、弓術、手裏剣、砲術等に及び、十六歳には最高藩校である致道館で学ばれました。
 その致道館が廃藩置県によって廃校となった際には、その数万冊の図書を常磐先生が入札購入して水位先生の勉学の資料として与えられ、宮地家には土蔵に入れた貴重道書類の他、八畳の書斎から神殿に至る廊下まで本箱がずらりと並んでいたことは、当時の目撃者が等しく語っているところであり、先生御自身も「その数幾万巻なるを知らず」と記されています。
 先生が学ばれた百科の学は、先生の学究心の赴くままに必ず専門的に究められ、『本草綱目』に関する精密な著作があるように植物学も研究され、十八歳の頃(明治二年六月)には四国の山中で鉱山を発見される等鉱物学にも精通されており、仙薬の精製に通じる知識も持たれていたようです。 #0230【尸解の玄理(9) -求道の真義-】>>
 また、四十歳前後からは生物学に興味を持たれ、顕微鏡を購入して熱心に微生物の生態研究に打ち込まれる一方で、書道も嗜(たしな)まれ、祝詞等は顔真卿(がんしんけい)を彷彿とさせる端整な書体で、短冊等も天衣無縫な筆致として知られています。

 水位先生の初めての著作は『勧懲黎明録』ですが、これは慶応三年ですので先生が十六歳の時で、その後「明治二年十八歳、正月より学室に籠居して学術を勉学し、寝食を忘るゝに至る。六月『太古史叢談』を著す」と日誌に記されています。そしてその翌年には『霊魂論』、さらにその翌年には『天武天皇正統記』、『大学正記』、『鬼神新論附録』、『神母正記』、『筆山奇談』、『玄徳経』、『幽霊叢談』、『大祓詞解』、『校訂体道通鑑増補定篇』、それ以降も『神仙霊符法』、『天狗叢談』、『導引法』、『使魂法訣』、『神仙妙術訣』、『神仙霊含記』、『医道叢談』……というように、専門的な著述を続々と作述されており、その健筆振りは日本古学の泰斗・平田篤胤先生を彷彿とさせます。 #0254【『幽界物語』の研究(24) -平田篤胤大人のこと-】>>
(水位先生の門人帖には約三千人の名が記されていましたが、明治初期における第一流の神道学者であった矢野玄道(はるみち)先生も水位先生に師事され、矢野先生の名著『訂正大学』は水位先生が二十六歳の時の原著によって大成したもので、また易聖と称される高島嘉右衛門翁(高島易断の創始者)も実は水位先生の門人で、神仙道を学んだ一人であったことが伝えられています。 #0224【尸解の玄理(3) -実在する尸解仙-】>> )
 さらに水位先生の現界における学術の素養が進むに連れ、神仙界においてもその位階が進み、神仙界の玄台山の書館に出入りを許されて深秘の道書類の閲読を得る便宜が与えられ、また高貴な神仙より直接指導を受ける機会にも接せられたことが『異境備忘録』中に見えますが、先生の学的生涯はその特異な霊的環境のため極めて高次元で、文字通り奇想天外より来るものが多く、人間的な精励刻苦の上に築かれた学識の上に、さらに天来の思想を添加されたもので、普通の世の常の学者とは自ずから別次元の立場に恵まれていたのでした。

 かくして天来の玄理・秘儀をもたらされた水位先生の著述は膨大な量に上り、先生の御帰天後は数ヶ所に分割して保存され、その一部は宮地文庫として高知図書館に保管されていましたが、惜しいかな戦火によって全て炎上し、分家に所蔵してあったものも全て祝融の神によって召されることとなりました。
 しかしながら奇跡的にその学統は、水位先生所伝の五岳真形図や三皇内文を始めとする重秘の諸真形図や霊符類、貴重な道書神宝類や深秘の伝法記録等と共に、水位先生と同郷であり、明治の神道界の重鎮であった元宮中賞典・宮地厳夫先生が継承され、厳夫先生が写本された『異境備忘録』の後書には、「この異境備忘録は神秘的体験の秘められた記録でありまして、素(もと)より普通の著述といった意味合いのもとに書かれたものではなく、文字通り一つの備忘録でありますが、その神秘的体験の内容は古来のこの種の記録に照し最も根源的な、しかも新しい分野に触れられた極めて異彩あるものとして、又深い厳粛な修道上の内的世界を脱白に遺記されたものとして、体験道たる神仙道の研究上重要なる一資料たるを失わないものと確信致しております」と記されています。

 さて、次回より水位先生によってもたらされた宇内の実消息について考究して参りたいと思いますが、先生が『異境備忘録』中に、

「幽冥界の事を記するに当たりては、何れの界に入りても、帰るがいなや近年は筆記すれども、大事なるは書き洩らせる事あり。その大事のことも書きたるやうに思へども、後日見れば大事件は如何(いか)なる事か書き落として、文句の続かぬも多かるを、心付きては書き入れもせんと思ふに、これさへたゞ思ふのみにて、或(あるい)は心地悪しくなり頭痛などして書き入るゝことも又うるさくなり、明日こそ書き入れも致さめと思ひつゝ、その日になれば亦(また)前日の如く。かくして一日二日延び行く随(まま)に夢の如くなりもてゆきて、終(つい)に忘れ果つるなり。
 又、その忘るゝことを知りては、幽冥界より帰りたる時に早く大事なる事も書きつけて漏れ落ちたる処はなきかと数十遍も繰り返して読み見るに、文句も聞こゆるを、翌朝取り出して見れば、文句も散乱して木に竹接(つ)ぎたる如く、我が筆記せし物ながら合点のゆかぬ様になりて、再び書せんにも大に労の行くやうに思ひ、怠惰の心俄(にわ)かに起こりて、如何にしても大事をば書き止める事難し。こは幽冥中に許さぬ理(ことわり)のあるなるべし」

「現世にて神等(かみたち)に伺ひ奉りたき事どもありて、その事を心中に思ひ幽界に入りて見れば、その伺ふ事をも打ち忘れ、又この界に帰りては忽(たちま)ち思ひ出るものなり。
 さればこの度は忘れじとて紙に書き付けてかの界に入る時は、その書き付けを懐中にしながら忘れ、或は又その書き付けに不図(ふと)心付きて尋ぬるに、その時ばかりはよく覚え居(お)れど、帰りて見れば夢の如くに恍惚として証(あかし)なきが如くして忘れ、或は現世に訳し難きもかの界に入りては自然に解する事も多くあり。人間(じんかん)に洩らし難き事件に限り必ず忘るゝなり。又、人間に洩らしても咎めなき事も日を経る間に忘るゝなり」

「国々の名山・高山の幽界は、毎々(つねづね)見て別に記し置ける書ありしに、その中には人間に洩らされぬ秘事も多くありて、その書を人に見する毎に熱病を七日ばかり発する事はいつも違はず。故に去る明治十六年一月一日に焼き捨てたり。されど多くは暗知したる事もあり、人に語らんとする時は、夢見たるやうに思ひて順序の立たぬ事あり。その人去りて後には明白に思ひ出すことは常にあるなり」


と記されているように、幽冥界の実消息を一般公開することについては霊的制限が加えられる場合があり、また重秘の漏洩には冥罰が下されることもありますので、例によって天機を窺いながら畏(かしこ)みつつ筆を進めて参りたいと存じます。

2018年9月29日土曜日

『異境備忘録』の研究(2) -手箱山開山-

『異境備忘録』の研究(2) -手箱山開山- 

宮地水位先生が神仙界やその他の諸幽界に出入りされたのは十歳の頃からで、厳父・常磐(ときわ)先生の御使として脱魂法により手箱仙境に来往される内に、大山祇神(おおやまづみのかみ)の御寵愛を受けられ、その御取り持ちによって少名彦那神に謁見されたことが端緒となっており、そのあたりの事情について『異境備忘録』より抄出したいと思います。 #0118【大国主神の幸魂奇魂】>> #0258【『幽界物語』の研究(28) -参澤先生の霊的体験-】>>

「我が父・常磐大人(うし)、三十六歳までは武術を好みて、剣術・砲術・弓術には別(わ)けてその道に達し、何れの所にても先生と仰ぎ敬はれしに、父が砲術の師たりし田所氏、或る日父を招きて云ひけらく、「足下(そっか)、神主の家に生まれながら神明に仕ふる勤めを捨て、年来武術を好みその奥義を得んとして、砲術はその極に至ると雖(いえど)も、我が職務に暗きは実に生涯の恥辱なり。我、職務を怠りては神明に対し奉り第一の不敬なり。足下、武術に心を入れて粉骨するが如く、神明に奉仕すべし」と示諭(しゆ)せられけるにぞ。
 これに感服して三十七歳の正月元旦より武術を止め、毎夜子(ね)の刻(午前零時)より起きて寒暖霜雪の間も休息する事なく、地上に立ち天を拝し、次に神前に向ひ祈白(きはく)する事巳(み)の刻(午前十時)にして竟(おわ)り、さて朝膳を食す。夕は日暮より五つ時(午後八時)までに及ぶ。
 我、父の行ひの有状(ありさま)を見るに、雪の夜等は庭前の石上に座して、祭服に降りかゝる雪は氷となり、これを握れば服と共に凍りたり。されども撓(たゆ)まず手を組み空に向ひて慇懃(いんぎん)に祈白する事二時(ふたとき、四時間)ばかりにして家に入り、神前に向ひて又礼拝する事十年を積み、漸(ようや)く大山祇命(おおやまづみのみこと)に拝謁するを得て、益々魂を凝らし、終(つい)に海神(わたつみのかみ)及び諸神に通ずる事をも得、又天狗界の者をも使ふ事を得て行くほどに、畏(かしこ)くも大山祇命の御依頼によりて、土佐国・吾河郡安居村の高山・手箱山と云ふを開山し大山祇命を鎮祭し奉り、衆人を集へて大鎖三十六尋をこの山に掛けたり。
 その時よりして父の神明に通ぜし噂の盛になりて、奸吏(かんり)十八人その事を種々に申し立て詐上(さじょう)し、遂に神主職も放され、遠方往来さへ止められければ、父の代りに堅磐(かきわ)十二歳にて神主職に召し出されたり。されども屈せずして神拝の勤め前に倍し怠らざりければ、父を詐上し且つ吟味せし者は皆年々に死に往きて一人も残る者なきに至りしが、遂に父の正義分明なるによりて又召し出し給ひ、父子勤めを許されたり。 #0316【『異境備忘録』の研究(1) -概略-】>>
 この時より手箱山へは父の我が魂を神法を以て脱し、使に遣(やり)し事度々にして、遂に大山祇命の御執り持ちによりて少名彦那神に見(まみ)え奉る事を得て、遂に伴ひ給ひけるぞ諸々の幽界に入出する始めにぞありける。これ皆父の恩頼(みたまのふゆ)によるなり。」『異境備忘録』

 水位先生の手記には「父の恩頼によるなり」という記述が繰り返し見え、水位先生の父・常磐先生に対する深い想いが察せられますが、その艱難辛苦たる修行もさることながら、「海神及び諸神に通ずる事をも得、又天狗界の者をも使ふ事を得て」「大山祇命の御依頼によりて」「父の我が魂を神法を以て脱し」というあたりに常磐先生の卓越した道力が窺われます。
 水位先生によれば、常磐先生が当時は獣道しかない手箱山登拝を決意された時、見ず知らずの子供が訪ねてきて、山上へ掛ける鎖を鍛冶屋へ注文して来たとのことで、その子供も登拝に同行することになり、それから数日を経て一行は山上付近にたどり着きました。
 しかしながら、今でこそ山上も開けて登拝も容易になっていますが当時は非常に険峻で、特にドーム状の最頂上に至る岩壁は足場もない有様で、門人達や多数の信徒に引き上げさせた三十六尋の鉄鎖も、さてどこにどうして掛けるべきかと常磐先生を始め皆、大絶壁を仰いでハタと当惑するのみで全く途方に暮れてしまったのでした。
 その時、突如として例の子供が五、六十貫(約200kg)もあろうかという鎖の一端を持ち、電光石火の勢いで正面から岩盤を駆け登ってそれを掛け終え、しかも鎖の寸法もピタリと合っていたため、一同の者は唖然とし、この時ばかりは流石に常磐先生も仰天されたようですが、この奇跡を目の当たりにした衆人も愈々敬神の念を深めたことが『手箱山鎮祀記』に記されています。
(この男子は山の麓の村の鍛冶屋の子供で、その後は特に奇なることも妙なることもなく、一時的な神憑かりであったと常磐先生が述懐されています。)
 その後、常磐先生一行は鎖を頼りに山頂に昇り、鉄の鉾を立てられて仮の神座とされたのが万延元(1860)年六月十五日で、三年後の文久同月同日にはこの鉾を抜いて大山祇神社を鎮祀され、さらに頂上に点在する大盤岩を神座とする十二社を鎮祀されたのが手箱山開山の来歴です。


 さて、今も手箱山(筒上山)の山頂にはその鉄鎖が残っており、登拝する際には鎖を三度岩盤に打ち付け、水位先生によってもたらされた神仙界所伝の入山霊唱を奏上することが神仙道の慣わしとなっていますが、その度に上記の奇談を思い出すと共に、山頂にて大山祇神及び人間界に最も近い神仙界直系の幽府である手箱仙境を拝すると言葉にならない感動を覚え、宮地神仙道の鼻祖・常磐先生の偉大なる御神業に頓首再拝申し上げる次第であります。 #0079【人類物質世界開闢のため】>>

2018年9月28日金曜日

『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-

『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-
 
「『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-
父の神法を種々神々より授かりて、飛行の法をひそかに近き山に入りて修行し、海上歩行の法も行はんとしてその用意をしけるに、あまりに奇妙なる事を授かりし嬉しさに、神明に口止めせられし奇術を思はず信仰の諸士に語り、その御咎(とが)めによりて明治三年中風病を発して、神明より授かりし秘事は多く忘れたるに、折にふれては又人々に神明の授け給ひて秘しける事ども、不図(ふと)思ひ出て語りけるに、同十二年言語を止められ手足叶はずして、それより一言半句も出す事能(あた)はずして当年二十二年に至れり。
 これにつきては川丹(せんたん)先生に父の咎めを神等(かみたち)に赦(ゆる)し給はん事を依頼し、小童君(しょうどうくん、少名彦那神)にも父の病気平癒を祈り申せども、「明治三年に死すべきを生かして言語を止めたるなり。死して後に至れば又慈愛は本(もと)の如くに致すべし」と宣(のたま)ひて平癒の願は叶はず。悲哉(かなしいかな)。
 さて、父の秘密を語りてそれを聞き、妄(みだ)りにその法を行はんとして仙人ぶりて自慢しつゝ、己が自然に神明に通じ御教を蒙りたりと誇りし者二十九人ありしが、如何(いか)なる事にや二十八人は死して、今その一人は残りて家貧しくなり、今もこの世にありて売薬等せり。故に神明より授かりたる秘事は、死するとも洩らさぬが肝要なり。 #0244【『幽界物語』の研究(14) -神法道術-】>>
 さて、父・常磐大人の神明に奉仕せし間の勤めの艱難(かんなん)苦行せられし事は、神官中普(あまね)く無きが如く我ながらも覚ゆるなり。これは我が国人のよく知るところなり。我は父の万分の一もその勤め無くして神明に見(まみ)えしは、これ全く父の恩頼(みたまのふゆ)によるなり。 #0317【『異境備忘録』の研究(2) -手箱神山開山-】>>
 父は画を好みてその稽古もせし故に、神々の御形も多く写し置きけるが、中に大山祇命(おおやまづみのみこと)の眷属を率ゐ給ひて見(あれ)ませる時、御許を受けて写したりとて秘め置ける神像の図は、殊(こと)の外(ほか)に厳重なる御備立にて畏(かしこ)く見奉るなり。
 又、父の開山せし山は、予州・石鉄山(石鎚山)と牛角の如く屹立(きつりつ)して最高山なり。石鉄山は海神・三筒男神(みつつおのかみ)の鎮まり給ふ山、手箱山は大山祇命の鎮座にてこの宮は目今(もっこん、現在)郷社となれり。因(ちなみ)に云ふ、この山にも山人の住みて、夜に入れば山上の南方にて種々の噺声(はなしごえ)の聞こゆるなり。この山の天狗は一年替りに交替して伊賀国、(以下は欠文)」『異境備忘録』

 神伝によれば、大山祇神は神代第二期において火神の神体より化生した天津神であり、また小童君・少名彦那神は宇麻志葦牙比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の分霊神ですので、本来は人間界とは没交渉の宇宙的な神霊であり、人間界に出生して現界在世中にこうした尊神に見(まみ)えるという破格の立場を許される御方は古来極めて稀有といえますが、それには訳のあることでした。 #0116【二神の国造り】>> #0179【人寿が短縮された訳】>>

「川丹(せんたん)先生は、その根元は神界にて水位と同官同位なりしが、水位、冥官の掟を誤り神界を退けられし事久しきが間に、川丹先生は位階も進み、退妖官(たいようかん)中の員列三十六等紫上の中位と云へるに至りて、大霊寿真人(たいれいじゅしんじん)よりは二十七階ほどの上位にて、その上に智識明達にして神界にても名誉ある川丹先生なれば、再び神界に出入りの赦(ゆるし)を受けてよりは師仙と仰ぎ敬ふなり。水位の根元神界に出入りせしは十歳より小童君に伴はれしが始めなり。」『異境備忘録』

 つまり、水位先生が尊貴なる天津神の御寵愛を受けられたのは、先生が普通の人間ではなく、現界出生前、既に神仙界において大霊寿真の位階に在られたからですが、水位先生の現界御出現は単なる先生の贖罪ということだけでなく、その謫命として幽真界の実相を人間界に招来し、天運の循環に応じて幽中神秘の開展を図ることが目的であったものと窺われます。
(日本古学によると、神武天皇の即位によって「神代」から「人代」へ移行し、さらに明治天皇御即位の頃から「人代第二期」に変遷したとされていますが、「神人顕幽一致」の「神代文明」というべき霊的文明期への移行が着実に遂行されているものと思われます。 #0275【『幽界物語』の研究(45) -人霊の行方-】>> #0284【『幽界物語』の研究(54) -日本の行末-】>> )
 また幽界の位階については、『至道物語』中で山中照道寿真が河野至道大人に「この度、北天にて皇国の仙と外国の仙と称を御改めに成りたり。これまでの天仙を天寿、地仙を地寿、神仙を寿神、仙人を寿人、大仙人を大寿真、小仙人を小寿真と御改めに成りたり。我も大仙真を御改めありて大寿真と改めたり。外国は天仙・地仙・神仙・仙人・大仙人・小仙人とこれまでの通り、以来この称号心得べし。また、生きながらの仙も尸解(しか)の仙も称号共に寿真と称すべし」と語られており、神仙界において位階の改訂等も行われていることが分かります。 #0169【神仙の存在について(7) -神仙得道の法-】>> #0235【『幽界物語』の研究(5) -幽界の位階-】>>

 さて、常磐先生は『万葉集品物図解』等の著作があるように画道にも精通されていましたが、先生が大山祇神の御許可を得てその御神姿を謹写された御神像図は一部の篤信の道士に写図の拝戴を許され、その御神威によって諸々の奇異が示現されたことが伝えられており、これは尊き御神姿の真形図がそのまま御霊代(みたましろ)となることを意味しています。 #0260【『幽界物語』の研究(30) -書画について-】>>
 また、こうした高貴な天津神がその御神姿を人間に真写させ給うというのも通常では有り得ないことで、このことは常磐先生も水位先生と同様に、何らかの使命を果たすべく神仙界より派遣された仙であったことを如実に示しているといえるでしょう。

 その常磐先生が、ふとした機縁で禍根を残してこうした結末を招いたことは、余りにも痛々しい前者の轍(てつ)として後進の道士が深く自戒すべきことではありますが、「明治三年に死すべきを生かして言語を止めたるなり」というあたりに妙な不自然さが窺われ、明治二十三年一月十五日、七十二歳を以て尸を解かれるまでの二十余年に亘る常磐先生の病廃生活は、単に神々より口止めされた飛行の法や海上歩行の法を門人たちに禁を犯して授けたということだけで片付けられるものではありません。
 これは「仙は類を知る」とでも申しましょうか、水位先生と同様に神仙界より派遣された常磐先生であれば、我が子の前身や禍咎を負って謫仙として人間界に出生したという事情も御存知だったはずで、ならばその霊的活動を全うせしめるべく、我が子のために「生ける身代わり」として贖罪を引き受け、犠牲の病床に伏せられたというのが真因であったものと思われます。
(常磐先生が水位先生の勉学には特に力を注がれ、幼少の頃より脱魂法によって手箱仙境に導かれたことからも、このことが窺われます。 #0316【『異境備忘録』の研究(1) -概略-】>> )

 余りにも凄絶にして余りにも壮絶な犠牲ではありますが、水位先生が何度も「これ皆父の恩頼によるなり」と繰り返し記されているのもそのあたりを含めてのことで、常磐先生と水位先生は二人にして一人とでもいうべく、二人一体の神業が水位先生の神通の真相で、愛児の前身を知り、その現界出生の幽契を悟られ、あえてその謫業に代わって人天の大義を貫かれた父と子の至情に対して尊き神々もそれに応え給い、地上開闢以来の大偉業が成し遂げられたものと拝察されます。

2018年9月27日木曜日

『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都ー

『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都
   
  「幽界の大都は第一・紫微宮(しびきゅう)、第二・日界、第三・神集岳(しんしゅうがく)、第四・万霊神岳(ばんれいしんがく)なり。されども常に幽政を行ふ法式を定むる所は神集岳なり。」『異境備忘録』

「幽界は八通りに別れたれども、又その八通りより数百の界に別れたり。然(しか)れども宇内の幽府は第一に神集岳、第二に万霊神岳なり。」『異境備忘録』

 古代中国の文献『雲笈七籖』(うんきゅうしちせん)には、「太一真君(たいいつしんくん)は北極大和の元神なり。神通変化、北極紫微宮より天地の間に経過し、万物を滋育す。天に在りてはすなわち五象明らかなり、地に在りてはすなわち草木生ず」とありますが、この太一真君とは天之御中主神のことですので、つまり紫微宮とは日本の神典に見える「別天(ことあめ)」に存する宮殿のことで、古代中国の天文学で北極星のことを「紫微星」、その北極星を中心とした天区を「紫微垣(しびえん)」と称したのも天機が漏れ伝わったものでしょう。 #0033【「別天」とは?】>> #0100【世界太古伝実話(9) -道教に見える日本の神々-】>> #0210【神道宇宙観略説(1) -宇宙の大精神-】>>
 日界は太陽神界のことで、日本の神典では「高天原」として伝えられていますが、太陽は古代より世界各地で崇められ、中でも「太陽の消失」にまつわる神話は世界中に散在し、その多くは太陽神が月神と敵対したことが原因となっています。 #0076【須佐之男命の乱行】>> #0078【天石屋隠れ -三種の神器の起源-】>>

 さて、「神集岳」「万霊神岳」というような神仙界の存在は、日本の神典はもとより世界のあらゆる古伝承にも見えず、それが些細な一仙境というのならまだしも、宇内幽府の根本中府であるところに在来の古学や玄学の知識のみでは理解し難い趣があり、一種奇異の念を生じるのは人情の常でしょう。
 しかしながら、古今の文献に傍証のない存在であればこそ、よりその作為的なものではない真実性を直感し得る深理をも悟らなければならないはずですが、先入主となる通念から考えて、誰にでもその理(ことわり)を求めることは困難であり、水位先生もこれらの神界の実相を公にすることについては常に慎重な態度をとられ、よほど道骨の門人でなければ語られることはありませんでした。
 千古秘せられた最高神界の実消息を神霧を開いて人間界に伝えられるというようなことは、まさに地上開闢以来の一大事といえますが、それを公にする時節については水位先生も深く遠く後代を慮(おもんばか)られたようで、家牒の中に子々孫々への遺言として、「祖先以来代々に著す書類は当時迂遠(うえん)の論説ありとも決して遺失せず、霊舎の傍らに貯蓄して常に虫の害無きを慮るべし」と記されています。
(「神集岳」や「万霊神岳」という名称そのものが余りにも安易なネーミングではないかという疑念を持たれる方は、そもそも現界で用いられる文字は幽界より伝えられたものであるという事実を忘却しているものと思われます。 #0242【『幽界物語』の研究(12) -幽界文字の存在-】>> )
 『至道物語』には、明治九年七月七日の夜、山中照道(やまなかしょうどう)大寿真が吉野山の仙窟から肉身を挙げて昇天されたことが記されていますが、明治六年の頃には神集岳への出入りを許されたはずで、宮地厳夫先生も『本朝神仙記伝』中の河野至道寿人の伝記の中でその事に言及されていますので、その一節を抄出してみたいと思います。 #0164【神仙の存在について(2) -『本朝神仙記伝』のあらまし-】>> #0165【神仙の存在について(3) -河野至道大人のこと-】>>

「(山中照道)大寿真の御咄に、我、三年前、御用有りて北天へ昇り、都へ入らむとする時、その門に恐ろしき神坐(ま)しまして厳しく尋問せられし故、御用の次第を申しければ、御符(通用切手なるものの由)を渡され、それより都の中へ往来自由にて入りて見しに、神真の宮殿、古昔(いにしえ)より年々に増加して、今はその数無数に成り居るとの仰せにてありしとぞとも、また山にて天満宮の御事を伺ひしに、北天に御住みになり、三年前北天へ昇りし時、御宮殿へ参りしに、実に美しく大にして広きこと計られず、それぞれの間に各司神坐して、拝謁等のことは中々容易に叶はざるなり。昔は十六万八千余の神々を司り給ひしとあれど、今は数千万の神々を預かり給ふとぞとも。」 #0281【『幽界物語』の研究(51) -菅原道真公のこと-】>>

「寿真の称号を得る時は、北天の御使を勤むることの成るものなりと申されしとぞとも見えたるを始め、また世界は三千世界に止まらず数万の世界の有ることを云はれたるの類、凡(およ)そ四、五十箇条も有れど(後略)」

「今、挙げたる『至道物語』の中に就(つい)て、(山中照道)寿真が「北天」と云はれたるは、或(あるい)は「神集岳」と云へる神仙界のことにはあらざるか。それは、我が道友・水位霊寿真は名師に伴はれてしばしば神仙の幽境に入り、彼(かの)界のことには精通したる人なり。その著に係る『異境備忘録』に、「幽界は八通りに別れたれども、その八通りより数百千の界に別れたり。然れども宇内の幽府は第一に神集岳、第二に万霊神岳なり」と云ひ、またその神集岳は、「大国主神、少名彦那神等の掌り給ふ所にして、その入口に見麗門(けんれいもん)と云ふ門有り、その門を入りて行くこと数里にして、また六元門と云ふ有り、この門に数多(あまた)の警官有りて判鑑符(はんがんふ)を検査し、符無き者は通行を許さず」と云ひ、またこの界に荘厳なる宮殿の夥(おびただ)しきこと、また特に菅公即ち天満宮の広大なる宮殿の有ること等、明細にこれを記し、且つ水位真が由(よし)ありて幽許を蒙り、その神集岳の真形を写し来れる図もありて、余(よ、厳夫先生)もこれを拝見したるに、照道寿真が至道に語れるところと実によく符合するもの有るに似たり。然れば、その「北天」と云へるは、或は神集岳にはあらざるかと余が考ふるも理なきにあらざるなり。」

 思うに山中照道大寿真が「北天」という仮称を用いて河野至道寿人に告げられたのは、「神集岳」という実称を漏らしてはならない理由があってのことでしょう。

 ちなみに、厳夫先生も後年には神集岳神界に出入りされたのですが、明治十一年七月七日、厳夫先生が手箱山へ参篭されるべく潮江の宮地家に立ち寄られた際、神集岳真形図を厳夫先生に授けられ、丁寧に細かく指示を与えられたのは水位先生の厳父・常磐先生であったことが伝えられています。 #0317【『異境備忘録』の研究(2) -手箱神山開山-】>> #0318【『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-】>>

2018年9月26日水曜日

『異境備忘録』の研究(5) -玄丹大霊寿真人ー

『異境備忘録』の研究(5) -玄丹大霊寿真人
   
  「川丹(せんたん)先生は一名・玄丹(げんたん)大霊寿真人(たいれいじゅしんじん)と云ふ。本(もと)の産(うまれ)は朝鮮国と云ふ。神仙界にて尊き位に坐(ま)すなり。年齢は明治元年まで二千十六年になりぬと云ふ。容貌は三十四、五歳に見えたり。支那国の仙界中督吏官・許真君(きょしんくん)によく似たり。故に見まがふ事あり。」『異境備忘録』

 高山寅吉や島田幸安も来迎の「仙」に伴われて仙境に至ったように、幽顕往来が原則としてしかるべき神仙またはその使者の来迎を得て行われたことは古来よりの幽顕交通者に共通しており、それは水位先生も例外ではなく、その内で最も多く水位先生を導かれたのは川丹先生でした。 #0232【『幽界物語』の研究(2) -幸安の幽顕往来-】>>
 その川丹先生もまた、寅吉を仙境へ伴った杉山僧正や幸安を指導された清浄利仙君と同様に一度人間を経験して登仙を果たされた神仙で、明治元年で二千十六歳ということは、第九代・開化天皇の御宇十(紀元前百四十八)年に神化の道を成就して神仙界へ入られたということになります。 #0222【尸解の玄理(1) -神化の道-】>> #0233【『幽界物語』の研究(3) -幸安の師・清浄利仙君-】>>
 また、「支那国の仙界中督吏官・許真君によく似たり。故に見まがふ事あり」とあるように、水位先生はこの時既に支那仙界に往来され、許真君に面会されていたことが分かります。
(許真君は東晋時代(317~419年) の著名な道士で、伝承によれば、彼は百三十五歳の時に「仙眷四十二口、同時白日拔宅飛升天、雞犬亦随(仙人一家四十二人を引き連れ、同時に白日に家を抜けて昇天し、鶏や犬もそれに随った)」とされています。 #0263【『幽界物語』の研究(33) -寿命について-】>> )

川丹先生の用向ありて一つの界に赴き給ふ時に、伴はれて行きたる事あり。その界の名は今は忘れたり。大川の東方に流れ長堤のある所に始めて降りたるに、北方は大川、南方は堤なり。この堤を歩する事二里(約8km)ばかりにして藁葺の人家ある所に出たり。男女共に皆面貌は美麗なれども現界にて見る非人乞食の状(さま)をして、腰には小さき緒を結び、多く股まで露(あらわ)したり。この所一つの区域をなす。
 こゝを東に過ぎる事一里ばかりにして黒色の家ありて商家の状をなす。又、こゝを過ぎる事八丁(約872m)ばかりにして山あり、宮殿並び立ちたり。支那服に似たる仕立てに黒衣を着し、男女共に太刀を佩(は)きたり。この山の入口に黒き大門あり、内に入れば左右に大なる家あり。こゝを一丁ばかり右の方と思(おぼ)しき所に黒き塀(へい)十二重高く聳(そび)えたり。私(ひそか)に内を窺ふに、黒き大なる柱を数十組み上げたり。この所はこの界の刑法場と云ふ。
 こゝを過ぎれば南は大山東に連なり、北は大川を隔て砂漠を見る。山麓に添ひ東に行く事二十丁ばかりにして、北の川岸に折曲すれば渡し舟数十あり。舟の舳(へさき)に四歳ばかりの童子を載せて居(す)ゑたり。この川渡り、大なる浪(なみ)逆立ち大渦の巻きたる所数を知らず。
 川丹先生云ふ、「汝はこゝの舟に乗る事なかれ。最も危き所なれば、こゝを一丁ばかり東に行く時は十丁位なる小山あり。この山の半(なか)ばを北に向ひ下れば川渡しに出るなり。又、小山に至る際に道二つあり。左の道を行く時は大なる家あり。その家より役員出来れば事難し。依りて竊(ひそか)に右の道より山に登るべし」と宣ひて、先生は舟に乗り、別れて行くほどに、道を取り違へて件(くだん)の大なる家の門に行き当たれり。
 この門前を遮り山麓にかゝりけるに、後より棒を持たる人二十ばかり追ひ来りけるに、一生懸命足に任せて行くほどに、この山は巌岨(がんそ)にして大樹茂り、種々の獣類、大なるは牛の如くなる兎の如くなるものゝ数十往来して、その恐ろしさ云はん方なし。
 山半ばに至りて日既に暮方になり、追ひ来る人も近くなり、こゝより北に下れば即ち川渡しに出たり。川上には筏(いかだ)を組みて、水面穏(おだやか)なり。この筏を踏みて渡る事六丁ばかりにして大なる川原に出て後を見れば、かの追ひ来る人はどこへ行きたるか見えず。又、川丹先生も来り給はず。
 この川原を北に向ひて行くに、小高き所に松の林あり。こゝを過ぎれば又人家数十あり。その人家の並びたる中には学校に似たる所ありて、童子ども数多(あまた)もの学ぶ状の見えたり。こゝを又北に過ぎるに、川原にして墓所と思(おぼ)しき物の累々(えいえい)として連なりたるが幾千と云ふを知らず。こゝにて日已(すで)に没したり。
 又、こゝを過ぎて行くほどに向(むこう)より六人現世の巡査の如きが来りて我を捕縛せんとするにぞ、いと心細くなりて大音を出して川丹先生を呼(よば)はりたるに、六人の者少し躊躇(ためら)ふ状の見えたるに、又「川丹先生」と呼はりたれば、六人の者、「川丹先生と云ふは神集岳中の尊官なり」と云ひて六人咄(はな)しけるに、西の方より数十の燈火(ともしび)の見えけるに、追々に近くなりて、川丹先生五十人ばかりの者を率ゐ給ひて来り給ふに、六人の者は地上に平伏したり。この時、蘇りたる心地をぞなしける。
 川丹先生の云ふ、「この者を一人この界に放ちたりしは我が失策なり、廻察員(かいさついん)大儀なり」と宣へば、六人の者は、「大(おおい)に御無礼を仕(つかまつ)りたり」とてそこを退きたるに、又五十人の者に向ひ「送員大儀」と申し給へば、西の方へ皆々帰りたり。これよりこの所を立ちてその夜半頃に送り帰し給ふ。」『異境備忘録』

 神集岳の神官といえばその他の幽境から見れば恐れ多い尊官であり、この水位先生の実体験も川丹先生の御位地を窺うに足り得るものといえるでしょう。 #0319【『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都-】>>

 水位先生の伝承によれば、川丹先生は元は神集岳において水位先生と同官同位でしたが、水位先生が謫仙として人間界へ派遣されている間に位階も進み、神仙界の刑法所に相当する退妖館(たいようかん)中の員列三十六等紫上の中位という位階で、大霊寿真人の初階よりは二十七階ほどの上位に在り、神集岳においても名誉ある御存在であることが伝えられています。 #0318【『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-】>>

2018年9月25日火曜日

『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-

『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状- ●
00321 2014.10.27

「明治八年二月二日、清浄利仙君の使者・玄丹先生に伴はれて神集岳(しんしゅうがく)に至る。大永宮(だいえいきゅう)並びに理上宮(又云、小璃宮(しょうりきゅう))に至り、仙令方に拝謁致し、帰る道にて小童君を拝す。これは空行の時なり。」『幽界記』

 宮地水位先生が宇内の第一の大都・神集岳に入られた記録で最も古いものは『幽界記』に記されたこの条ですが、この時は「清浄利仙君の使者・玄丹先生」とあるように、清浄利仙君の御意図によって玄丹先生(川丹先生)の来迎を得られての神集岳入りでした。 #0319【『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都-】>> #0320【『異境備忘録』の研究(5) -玄丹大霊寿真人-】>>

「諸所にある神仙界の大都と思ふ所々はその姿を多く写したれども、秘事・秘言などは筆記をば許されぬ故に委(くわ)しき記なし。天狗界は下等の界なる故に筆記し来りて、秘事も折々洩らしたり。」『異境備忘録』

 「筆記」という言葉からも分かるように、水位先生の幽境入りの多くは脱魂法によるものではなく肉身のまま行われたのでした。さて、それでは『異境備忘録』の記述によって神集岳の形状を拝することに致しましょう。

「神集岳の形状を拝せんとするには、まず大空に登り西北の方に降る。凡そ二時間ばかりにて着す。神集岳の乾(いぬい、北西)の方の海岸に楼門あり。見麗門(けんれいもん)と云ふ。又、五化門(ごかもん)と云ふ。この門を入りて、道幅八間(約14.4m)、左右に小松原あり。道程九里(約36km)にして門あり。旧名、宝龍門と云ふ。今、六元門と云ふ。門内に至れば警官数多(あまた)出張して判鑑符(はんがんふ)を検査す。
 警官の許可を得てこの門を経過して、又左右小松原なる道を行く事三里の内、貪欲心ある者を試みんが為に古器珍物等捨て置きたり。もしこれを拾て行く時は先に小さき門あり。これを思昔門(しせきもん)と云ふ。その門の内に茅葺の館あり。神火殿(しんかでん)と云ふ。その殿の左右に幟(のぼり)二流建てたり。
 この館にも数多の警官ありて、もし拾ひし品物あれば、如何(いか)なる物を盗取したるやと、先に拾ひし品と同じき物を出して詰問せらる。遂に白状すればそれより六人の護送官相添ひて、北に向ひて松原の東に道あり。この道を歩行する事九里にして、その内三里ばかりと覚ゆる所より、東に巨巖(巨岩)を堆(うずたか)く積みて高山の如くなるを眺望して行けば、遂に退妖館(たいようかん)に至る。一に呼吸館(こきゅうかん)と云ふ。その館に入りて、六人の真人館人に罪科を奏告す。それより厳しく叱咤を受け、罪の軽重によりて処分せらる。軽きは警吏(けいり)相伴ひて神集岳入口の門より東方にある通路に出て現界に帰らしむ。退妖館の後面に館左右にあり。官人の出張猶予所なり。
 正直にして欲心なく捨て置きし珍器を拾はざる者は神火殿前を経て行く。これより二路あり。東方に通じたる道行く事四十里にして大国主神の坐(ま)す宮殿に至り、西方に通じたる道を歩行する事十里にして玉壁山(ぎょくへきざん)に至る。山腹に通路あり、二十里の間を歩む。僅かに足を容(い)るゝばかりの細道なり。危畏云はん方なし。
 漸くこの山腹を過れば改艦台(かいかんだい)に至る。宮殿ありて真人(しんじん)数多あり。行人の艦札を検査す。この所の許可を得て青城山(せいじょうざん)に登る。頂上にて西方を遥望すれば、初めて天元山(てんげんざん)、勇山(ゆうざん)、見越山(けんえつざん)を見る。その所に池あり。知穢(ちわい)の池と云ふ。上に礱臼(すりうす)に似たる岩ありて、清水湧出す。柄杓(ひしゃく)を以て池の水を汲み、岩上に湧き出る水に注げば、火炎上る者は往き、上らざる者は後へ帰るなり。
 これより又二道あり。右へ降る坂道は厳しき故に左道に降る事三十丁(約3.3km)にして東に廻れば、径(わた)り二尋(ふたひろ、約3.7m)なる神字を彫せる石を八重に積み、横に十七数を並列せり。ここを斜めに降り五竜山(ごりゅうざん)東麓を越えて歩行すれば、広さ四十二間ばかりなる川水あり、橋を架す。隔化橋(かくかきょう)と云ふ。北方を眺望すれば磧(かわら、河原)ありて、遥かに宮殿二宇を見る。諸芸の勝負を決する所なりと聞く。青城山の頂より隔化橋まで、道程凡そ二十八里。この橋より南に向へば宮殿あり。退妖上官宮(たいようじょうかんぐう)と云ふ。
 この所を過る事九里ばかりにして、南、東、西、巽(たつみ、東南)方に通ずる四道あり。南道は大永宮(だいえいきゅう)東門に出るの道、巽道は神商館(しんしょうかん)四殿に通じ、且つ柳原神宴台に達す。東道は大国主神の九羅殿(くらでん)に達す。ここを西に向ひ歩む事暫時(ざんじ)にして南に宮殿一宇を見る。西方に宮殿八宇を見る。これより東に向ひて大永宮の朝神門に至る。
 方四十里の高壁、囲繞(いじょう)す。四方に大門あり。高壁の外面に大道を隔て西南の二方に溝塹(こうざん、堀)あり。垣内、大永宮を四方より囲みたる数十の荘厳なる宮殿あり。南門を采女門(うねめもん)と云ふ。南門外より東の大道を眺むれば高壁の中に宮殿のあるを見る。これを神幣館(しんへいかん)と云ふ。神界の兵器を蔵(おさ)むるの所。
 南門の正面の二川に橋を架せり。この橋を渡りて東西を見れば女神館東方に一宮、西に四宮を見る。こゝを過ぎて通道二分す。南道は簿式館(ぼしきかん)を経て山門穴に通ず。この界へ入るの裏門なり。東方を見れば遊神玉殿(ゆうしんぎょくでん)あり。この館は海岸絶景に臨む。海面に四山あり。風光の明媚、現界の名所の及ぶ所にあらず。
 見越山の西南に当たりて環玉山(かんぎょくざん)あり。全山、青色なる水晶なり。南方に当たりて試霊山(しれいざん)を見る。この山に穴あり。頂上は空碧にかゝる家に貫通す。又、東北より入るの通路あり。右、神集岳神界の大略なり。」『異境備忘録』

 この条だけでも宇内根本幽府である神集岳の実景が眼前に浮かぶほどですが、明治十一年の春に謹写された水位先生御染筆の神集岳真形図によって、さらに『異境備忘録』では漏らされた神集岳の実相が見えます。
 この神集岳真形図は二種あり、正図は東西に長く伸びる島形で、神集岳神界を上空から俯瞰されたものですが、それとは別の副図には地形や楼閣の姿や名称の詳細が朱字で記されています。

 まず神集岳の入口の海岸に雲人道という通路の起点があり、これが第一の大門で、神集岳のほぼ中央に位置する大永宮へ至るための通行判鑑符を受ける所です。この通行判鑑符は神界文字で記された霊符で七種七枚あり、大永宮に至るまでの間、実に七ヶ所査閲所(改艦台)において、それぞれ異なる判鑑符を提示して査証を受けなければならず、その厳重なることは想像以上です。
 その先は暫く山中を抜けるトンネルになっており、そこを出ると第二の大門がありますが、この間の路傍に通行する者の貪欲心を試すために古器珍物の類が夥しく放置されており、上記中に「この館にも数多の警官ありて、もし拾ひし品物あれば、如何なる物を盗取したるやと、先に拾ひし品と同じき物を出して詰問せらる」とあるのはこのことで、先生も「道路の物、一切これを取る事なかれ。取る時は大なる罪咎あり」と忠告されています。
 また、知穢の池の水を汲んで岩上に湧き出る水に注ぎ、火炎が上らない者は心身に穢れがあるため、そこから引き返さなければならない掟があるように、神集岳の関門通過はなかなか容易ではないことが分かります。

 それより白雲道、通天道を経て水火認調之嶺(初見岳)を越え、ここに塩精蜜調(仙人などの食物)を受ける宮殿があります。そこを下ると一面の大砂漠で、ここを通過して近英道を過ぎ、右英道と左英道の分岐点に当たる山麓に、水位先生が在世中に師仙と仰がれた玄丹大霊寿真人(川丹先生)が常任される宮殿があります。
 この界の宮殿の様式は概ね日本風で、神社の本殿のように屋根には千木があり、床を高くして階段によって昇降するようになっており、公庁や高貴な神仙達の宮殿や、大小霊寿真達やこれに近い仙階の真人達の住殿もこの様式ですが、無位の町家は千木が無く高床式ではありませんので、すぐに判別がつくようになっています。 #0318【『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-】>>
 その彩色については『異境備忘録』中に「仙界の宮殿は、屋根及び柱は黒塗にて座敷は多く赤色なり」とありますが、清浄利仙君が主宰される赤山仙境の家造の彩色も黒と赤の二色が用いられ、屋根には千木に似た物があり、人間界の神社の千木はこれに倣った物であることが『幽界物語』に記されています。 #0234【『幽界物語』の研究(4) -清浄利仙君の館-】>>

 大永宮は神集岳では「真区(まほら)」と称され、高貴な神々が集接される所で、方義山という一大山系中に所在しており、この図ではただ標注的に描かれていますが、実際には連峰あり渓谷ある中に数百の宮殿が連立しており、その大永宮を囲繞する高壁は単なる城壁のような物ではなく連続した回廊で、四方四十里(約157km)というのですから、ほとんど人間の想像を絶する荘厳さです。
(ちなみに、環玉山から東南部の山嶺に図示されてある巨木は、数百尺から二、三千尺(一尺は約30cm)以上の大樹であると伝えられています。)
 この大永宮が所在する方義山より望んで東方には女仙の宮殿が散在する区域で、ここでは大永宮に近い地区ほど高位の女仙の宮と拝せられます。その女仙宮の地区に連なる海岸は大きな湾となっており、その海岸より五つの島を臨むことができる風光明媚な場所に神集岳における水位先生の御常殿が存するのです。


 さて、神集岳のその他の実消息については、追々に出来得る限り公開致したいと思います。

2018年9月23日日曜日

『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-

「川丹先生に問ふ、「人の死して後、魂は何処に参り候や」、答、「魂に通りありて日界に至るもあり、罪により月界に至るあり、又、地球上の冥府に属するもあり。然(しか)れども千里の外に遊歴せし魂も、招呼する時は忽然と玉の飛ぶよりも早く来るなり。又、月界に属する魂は地球と両界の境に空気の漂ふ所あり、ここにて他の魂を待ち合せ、七、八つに至りて集合して一つになりて月界に赴く。その魂、罪を免れて月界を出る時に至りては、集合して件(くだん)の所まで来りて、それより分かれて神集岳の司命官に至りて、その指揮によりて地上の冥府に入る魂もあり。何れ月界に赴く魂は皆罪科の霊なり」。」『幽界記』 #0006【太陽と月と地球の関係】>> #0010【「死」と呼ばれる現象】>> #0275【『幽界物語』の研究(45) -人霊の行方-】>>

「地上に幽界はその数多きが中に、一小社と雖(いえど)も幽界を多くは構へたり。宮の幽界は出雲大社等は幽界に入りて見る時は一つの大幽宮と見ゆ。又、罰を申し付ける宮はこの宮にて、賞を行ひ給ふは伊勢の神宮なり。 #0155【『仙境異聞』の研究(20) -幽界の謎-】>> #0252【『幽界物語』の研究(22) -出雲の大神-】>>

 又、罪ある霊魂を罰し給ふ所は数々ある中にて、地獄の刑を行ふ所は諸国の噴火山なり。罪の最大なるは、神集岳中の退妖館に出して、その罰を受けしむるなり。その中には、霊魂を消さるも、月の国へ追はるゝも、地上に付きたる下等の幽冥へ下さるゝもあり。又、善行ありし人の霊魂は日界に上るもあり。川丹先生に聞きしかど、月界に入り、又日界に入りたる霊魂を見たる事は稀なり。多くは霊魂は地に付きたる幽冥界に止まるなり。 #0270【『幽界物語』の研究(40) -現界の罪-】>> #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>
 然るに幽界の大都は第一、紫微宮、第二、日界、第三、神集岳、第四、万霊神岳なり。されども常に幽政を行ふ法式を定める所は神集岳なり。」『異境備忘録』 #0283【『幽界物語』の研究(53) -神仙界について-】>> #0319【『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都-】>>

「宇内の大評定の時は、尊き神等(かみたち)は更にて、諸々の幽界より三人宛、その界にて勝れたるは万霊神岳に集会するなり。日本人、支那人、天竺人、西洋人、種々様々、衣服等異なるが参るなり。何れの界の言語もこの界に入る時は聞き分け入るゝなり。

 会議決定しては神集岳にその決議書を奉る。かくて少名彦那大神、八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、大国主神、御一見ありて、天照皇大御神も一見し給ひ、上極皇産霊神(じょうきょくみむすびのかみ)に御使を以て右の決議書を奉るなり。されども皇産霊神のその許へ参らずして、その代命を受け持ち給ふ天照皇大御神の御許にて、多くは御許可になるなり。
 さて又、幽界にも争闘ありて、幽界中の乱状によりては自然と現世にも及びて、日本に及ぶと支那に及ぶと西洋諸国に及ぶとの差別ありて、関係せる現世の国は一年を俟(ま)たずして忽(たちま)ち戦争起こるなり。幽界の改革もすべてはかくの如く、関係したる現世の国には必ず及び来りて、自ずから改革あるなり。」『異境備忘録』

「万霊神岳記録官には日本・支那の学者等五千八百神坐(ま)せり。その従官は七十二万二千十三なる由(よし)なり。この界の主領官は少名彦那神に坐せり。」『異境備忘録』


 以上により、幽政の改革については山人界、支那仙界、仏仙界、西洋仙界など諸々の仙界の真人(しんじん)が万霊神岳に神集(かむつど)いて神議(かむはか)らせ給い、その決議書を神集岳の主要な神々が御一見の後、北天神界の皇産霊神の許へ奉って可否を伺うのが定律ですが、多くは天照大御神が御許可し給うことが窺われます。

(天照大御神は太陽神界(高天原)の主宰神ですが、また神集岳においては皇産霊神の代命として実務を執行される重大な神職を担われていることが分かります。 #0062【三貴子の誕生】>> )
 さらに水位先生の『青真小童君伝集録』等に記された内容を合わせて勘考すると、顕界の地上人類はもとより宇内に生存する一切の万霊万魂の出自帰属、進退集散去来に関する幽事(かくりごと)を掌り給う根本神府は神集岳の紫籍府(しせきふ)で、皇産霊大神、伊邪那岐大神、天照大御神の代命として少名彦那神が主宰し給い、七十二大司命神がこれを分掌され、その副府である万霊神岳の主宰神もやはり少名彦那神で、その実際面は大国主神が掌り給い、直接的には中司命神ともいうべき万霊神岳の三十九司命神及び眷属の八千七百余柱の小司命神(いわゆる産土神)によって司命の幽事が分担されているという幽政の全体像を把握することが出来ますが、このことについては後述によって次第に判然として来るものと思います。 #0265【『幽界物語』の研究(35) -産土神について-】>> #0315【怪異実話(31) -神の出雲参集の伴をした人のこと-】>>
(水位先生所伝の秘詞の一節に「万霊皆紫籍府司命に帰す」とあるのもこの霊的事実に基づいたものです。)

 また『日本書紀』に、顕事を皇孫命に譲り給い、幽事を治(し)ろしめすこととなった大物主神が事代主神と共に「八百万神を天高市(あめのたかいち)に合(あつ)めて、帥(ひき)ゐて天(あめ)に昇りて」、高皇産霊神に謁見して「大物主」の称号を賜り、高皇産霊神の御娘である三穂津姫神(みほつひめのかみ)を妻として賜ったことが伝承されていますが、この天高市は万霊神岳中の一仙地で、幽顕分界以降、人間界に直接的に干渉する機関である山人界や支那仙界、仏仙界や西洋仙界等が万霊神岳に包含されることになったものと考えられます。 #0120【大国魂神と大物主神】>> #0135【地球上の幽顕の組織定まる】>> #0137【『仙境異聞』の研究(2) -山人・天狗・仙人とは?-】>>

(大国主神には須佐之男命の御娘・須勢理姫神が正妻として坐しますが、大国主神の和魂神・大物主神が高皇産霊神より三穂津姫神を配偶の神として賜わられたのは、この後に幽事の神政を掌り給うに当たり、北天神界との交流の必要性が生じるためと窺われ、真に深き篤き高皇産霊神の御神量(かむはかり)に出ずるものと拝察されます。 #0133【事代主神及び建御名方神の帰順】>> )

 さて、玄家において、仙官真人が尊秘する霊宝七十二真形図の内の一秘図として「万司神岳真形図」の名称が見えますが、道書にもその伝記を欠き、ただ「尊秘して窺うべし」とだけ伝えられ、古来より仙家においても所伝未詳の謎の尊図として厚く尊崇されて来ました。

 水位先生によってもたらされた万霊神岳の真形図は、まさしくその万司神岳真形図であり、その形状は神集岳のような一島嶼(とうしょ)ではなく山岳渓谷の集合体といった趣で、八百万の仙真達が八百万の巨大な霊峰を望まれながら優雅に仙職を遂行される御様子が窺われます。

2018年9月22日土曜日

『異境備忘録』の研究(8) -青真小童君-

「少名彦那大神は変化無比の神にして、伊邪那岐尊の代理として大司命左定官にして、常には髪は垂れて腰に至り、十二歳ばかりの御容貌にて、背に太刀を佩(は)き団扇を持ち、青色の衣を着給ひ、御腰の左右に幅六寸ばかり、長さ五尺ほどの平緒の黒白を六筋ずつ、左右に着け給ふ。」『異境備忘録』

 『幽界物語』中で島田幸安が少名彦那神に拝謁した時のことを「お姿のほどは、童形でご出現在らせられました」と述べており、『漢武内伝』にも「青真小童君(せいしんしょうどうくん)は形、嬰孩(えいがい)の貌(かお)あり。故に仙宮に小童を以て号(みな)と為す。その器たるや玉朗洞徹(ぎょくろうどうてつ)にして聖周万変(せいしゅうばんへん)、玄鏡幽鑑(げんきょうゆうかん)にして才真俊たり」とあるように、その御神姿は水位先生の記述と一致していますが、さらにインドの古伝にも「梵天子(ぼんてんし)」或いは「童子天(どうしてん)」と称される神の存在が伝えられています。 #0249【『幽界物語』の研究(19) -神々のこと-】>>

 また、日本の神典では、少名彦那神は「皇産霊神の指間(たなまた)より洩れて天降り給ひし長子(みこのかみ)」と伝えられており、道蔵では、『太上真経』に「青真小童君は天一の長子なり。然(しか)りと雖(いえど)も生子にあらず。天一の精霊感動変化の長子にして大司命(だいしめい)の真官たり」、『真玄経』には「東海小童は九天の真気、天一の生霊凝結して神と為る。これ万仙の主たり。又、泰一小子(たいいつしょうし)と曰(のたま)ひ、又、太清方諸青華小童大神と曰ふ」と録し、また、『神仙真一経』には「泰乙元君(たいいつげんくん)は元始天王(げんしてんのう、高皇産霊神)入室の弟子にして泰一小子と曰ふ。又、号(なづ)けて大乙小子と曰ふ。東海大司命神の神仙王なり」、また『漢武内伝』にも「青真小童君は元始天王入室の弟子なり」として、北天神界(北極紫微宮)直系の天津神であることが紹介されていることからも、少名彦那神が「天地開闢の初め葦牙(あしかび)の如く萌騰(もえあが)れるものに因(よ)りて成り坐(ま)せる宇麻志葦牙比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の分魂神」という説も決して荒唐無稽ではないでしょう。 #0116【二神の国造り】>>

「明治九年一月十九日夜、小童君に伴はれて蓬宮(ほうきゅう)と云ふ所に至る。この宮は得道して仙列に加はる者皆参集して太玄符(たいげんふ)を授かる。蓬宮の側に小理宮(しょうりきゅう)あり(これは神集岳の小理宮とは異なり)。これは上古、小童君の右令大司命の官に在りける時、太玄符を授け給ひし宮と云ふ。」『幽界記』

 神集岳真形図を拝見すると、大永宮の東南に青真小童君の御常殿である小理宮が位置していますが、水位先生が小童君に伴われて神集岳とは異なる古来玄家で著名な神仙の大都に赴かれ、その幽府である蓬宮に入られたのは当時水位先生二十三歳の頃でした。この一条は玄学を学ぶ徒にとっては非常に注目すべき消息ですので、道蔵上の文献を二、三摘記して考究してみたいと思います。 #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>
(中国の人文開化の淵源は日本に次いで古く、仙道も古代より普及して古来多くの神仙や仙人を輩出し、道書類にも神仙界の実相が漏れ伝えられたと思われる記述が数多く存在しています。 #0094【世界太古伝実話(3) -最も早く開けた国-】>> #0100【世界太古伝実話(9) -道教に見える日本の神々-】>> #0119【万国を開闢せし皇国の神々】>> )

 道家で三神山と称して尊仰するのは方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)、蓬莱(ほうらい)の三神仙境ですが、その存在は周、秦以前の古書にも見えますので、その伝承は相当に古いものです。
 この三神山の内で、方丈洲のことを少し覗いてみますと、まず『十洲記』に「方丈は東海の中心にあり。西南東北の岸正等、方丈方面各々五千里、上は専(もっぱ)らこれ群竜の聚(あつま)る所なり。金玉(きんぎょく)之室あり。三天司命(さんてんしめい)所治の処、群仙の昇天を欲せざる者は、皆この洲に往きて太玄生籙を受く」とあり、『中玄録』には「小童君は東華方諸扶広(とうかほうしょふこう)の仙宮を治めて始運を権(はか)り、玄圃(げんぽ)に遊びて仙職を領す。故に仙を得る者は皆扶広の仙宮に来り、小童君を拝して太玄生籙を受く」、『霊函記』には「東行して啓明の滄海(そうかい)を渡り、広桑山(こうそうざん)に登リ、始暉(しき)の庭に入りて大司命小童君に見(まみ)え、三品(さんほん)の簿籙(ぼろく)を受けて昇天す」、『集異記』には「東海小童君は青衣を服し扶広山の小璃宮(しょうりきゅう)を治め太玄生籙を以て得道の仙客に受けしむ」、『金根経』には「太上大道君(だじょうだいどうくん)、大洞真経を以て上相青童君(じょうそうせいどうくん)に付し、籙を東華青宮(とうかせいきゅう)に掌りて、後聖の応(まさ)に真人(しんじん)と成るべき者に伝えしむ」、『南貞説』には「大方諸宮は青君常治の処なり。その上、人皆、天真の高仙、太極の公卿(こうぎょう)にして諸司命所有の処、日月の光芒を服して已(すで)に得道の真人たりと雖(いえど)も猶(なお)故(ことさ)らにこれを服す。東華青童君は大司命総統なり」等とありますが、これらは何れもしかるべき神仙等によって伝えられた神仙界の実消息が甚だしく訛伝することなく伝承されたもので、方丈洲はまた扶広山とも浮広山とも広桑山とも方諸山とも称して伝えられています。
 そして『十洲記』に見える「金玉之室」は、『金根経』では「東華青宮」、『集異記』では「小璃宮」、また『南貞説』では「方諸宮」とも呼ばれ、『漢武内伝』の西王母の語にも「方丈の阜(おか)に理命(りめい)の室を為(つく)る」とあり、「理命」と「司命」は同義ですので、この幽宮は三天太上大道君(さんてんだじょうだいどうくん)伊邪那岐神の代命として小童君少名彦那神が、得道の真人のために神仙の生籙(太玄生符)を授け給う所であることが分かります。
 さらに『紫書金根経』には、「東華方諸青童宮に六門あり。問内周回三千里、東に青華門あり。西に玉洞門あり。北ニ瓊門(ぎょうもん)あり。南に寒水門あり。東南ニ大関門あり」とあるように、この真宮の規模の壮大さが窺われます。

 玄学家は少名彦那神を東海大神仙王金闕上相(きんけつじょうそう)大司命青真小童大君と称え奉りますが、これはその御神徳の上からこのように称されることで、東海上の大神仙界である太上大道君伊邪那岐大神の幽府を預かり治めて神真の生籙を司り給う棟梁の大神仙であることより東海大神仙王の御称号があり、また金闕上相と称え奉るのは太上大道君の司直の中で最高位の上相である御位置であるためで、太上大道君を御別名「金闕帝君」と称するのは、玉京山紫微宮(北天神界)の三天金闕宮に坐すからです。 #0228【尸解の玄理(7) -神・人の別-】>>
 枕中書の『真記』に、「玄都玉京は七宝の山なり。周回九万里、大羅之上に在り。城上に七宝の宮あり。宮内に七宝の玄台あり。上中下の三宮有りて一宮城の如し。上宮はこれ元始天王(げんしてんおう、高皇産霊神)、大元聖母(たいげんせいぼ、神皇産霊神)の所治なり。下宮は太上道君金闕帝君の所治なり。中宮は九天真王(きゅうてんしんおう)、三天真王(さんてんしんおう)の所治なり」とありますが、北天神界の実相の一端が洩れたものでしょう。 #0319【『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都-】>>
 『日本書紀』には、「伊奘諾尊、功(こと)既に至りぬ。徳(いきおい)また大きなり。天(あめ)に登りて報命(かえりごとまお)し給ひ、仍(よ)りて日之少宮(ひのわかみや)に留まりて寂然(せきぜん)として長(とこし)へに隠れましき」と伝えられていますが、伊邪那岐大神が報命に登られた天というのは皇産霊神の坐す北天神界(玄都玉京山)に他ならず、従って伊邪那岐大神が留まり給うという日之少宮は、つまり玄都玉京三宮の中宮である金闕宮であることは推断に難くないところで、かくしてその御本体は寂然として別天(ことあめ)に隠れ給い、伝道の幽政を金闕上相である大司命神・青真小童君少名彦那神に委ね給い、小童君がその後の宇内許多の神仙界を組織され、実質的にその統制を任じられている所以(ゆえん)もここに存するものと思われます。 #0033【「別天」とは?】>> #0070【須佐之男命による地軸の傾斜】>> #0322【『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-】>>

 それにしても、上記の『異境備忘録』及び『幽界記』の記述をよく比較すると、小童君が上古、小理宮において得道して仙列に加わる真人達に太玄生符を授けられた時は右令大司命の官で、水位先生が伴われた明治九年の頃は大司命左定官となっており、こうした宇宙的な大神霊にも位階の進位というものがあることが窺われます。
 また、上古の世に小童君が太玄生符を出された頃は小理宮で行われていましたが、今は蓬宮において行われるように改定されていることも分かりますが、神政は人智の及ばない遥か高次元界において粛々と行われているものと拝察されます。

2018年9月21日金曜日

『異境備忘録』の研究(9) -長生不死の道-

「明治八年二月十五日、召ありて筆山(ひつざん)より至る。玄丹先生に伴はれて行く。抑々(そもそも)この山は加久土命(かぐつちのみこと)、石長姫命(いわながひめのみこと)を祭る。又、加久土御室山と云ふ。火気甚(はなは)だくして草木生ぜず(阿波国五剣山の乾(いぬい、北西)の方にあり、一国の高山なり)。
 この時山上に至れば、石上に小童君坐(ま)しませり、御言(おことば)を戴く。拝伏し居たりしに、小童君、太玄生符(たいげんせいふ)を取り出し給ひ、傍の石に温めて、「これを飲め」と宣(のたま)ひて授け賜ふ。その符は口中に入れば粉になりて消たる心地なりしが、「これは腹中にて元の如くつけてあるものぞ」と宣へり、それより帰る。」『幽界記』

 筆山は高知市内を流れる鏡川の南に位置する丘陵で、潮江天満宮もこの山麓にありますが、宮地水位先生はしばしばこの山中より神仙に伴われて幽境に入られたのでした。 #0316【『異境備忘録』の研究(1) -概略-】>>

「明治八年二月十五日夜、火室山(ひむろやま)と云ふ神界に至りて、小童君に拝謁して太玄生符を受く。○○○を制して丹砂(たんしゃ)を以て書きたる物なり。」『幽界記』

「明治九年一月二十六日、大国主神の治め給ふ心安真宮(しんあんしんきゅう)へ小童君の供(とも)して至る。この時長命之符二枚を受く。桃板に丹砂(たんしゃ)を以て書す。」『幽界記』

 神仙の道を求める道士で、得道して仙列に加わり、神仙界の真人(しんじん)となる者が、いわゆる「名を仙籍に上る」際に、親しく青真小童君少名彦那神より太玄生符を賜ることについては前述した通りですが、『雲笈七籖(うんきゅうひちせん)』には次のように記されています。 #0323【『異境備忘録』の研究(8) -青真小童君-】>>

「東海青華小童の曰く、余(よ)、曩(さき)に恭(うやうや)しく太上(だじょう、太上老君伊邪那岐大神)の嘉命(かめい)を承(う)けて青華の宮を守り、衆仙玉女(ぎょくじょ)、妙行の真人左右に侍衛(じえい)し、学生之人を統摂(とうせつ)す。東殿の金房に宝経玉訣(ほうきょうぎょくけつ)有り。この内の要(かなめ)は左乙を端と為す。太上、余に勅して導誘休むこと勿(なか)らしむ。こゝを念(おも)ひて心に在り。天宝禁重く、軽々しく伝うることを得ず。これを伝うるに必ず先(ま)ず太上に啓告して乃(すなわ)ち施行することを得。学ぶ者多しと雖(いえど)も真を会する者少なし。これを出さば懼(おそら)くは泄宝之災を招かむ。これを閉ずれば絶道之咎(とが)を慮(おもんばか)る。積感の時を淹(ひさし)くし歳を累(かさ)ぬ。」

 「学生之人」というのは長生(ちょうせい)を学ぶ人という意味で、神仙道を「不老長生の道」「長生不死の道」等と申しますが、現界の肉身のまま百歳或いは百二十歳という長寿を得るというような意味ではなく、何人といえども胎生の肉身が死を免れることが出来ないのは造化の神理であり、人寿に定命があることは『幽界物語』中にも記されている通りです。 #0263【『幽界物語』の研究(33) -寿命について-】>>
 「長生不死の道を得る」というのは、死の関門を通過しても生命が終わることなく、何らかの方法で仙果を結んで太玄生符を授かり、霊妙なる玄胎を結成して数百年或いは数千年の寿命を賜り、長く天地の間に生存することを指してこのように称します。 #0168【神仙の存在について(6) -仙去の玄法-】>> #0226【尸解の玄理(5) -本真の練蛻-】>>
 この玄理については、人寿を与えられた霊魂が母胎内で肉体を結成し、現界に生まれて人間としての生涯を送ることを考えれば、仙寿を与えられた霊魂が仙胎を得て神仙界に転じ、神仙としてその生涯を送ることも容易に首肯し得られるでしょう。
 ならば通常人の帰幽霊との相違はどこにあるかといえば、通常の人は霊魂の凝結力が弱く清明度も低いために死と同時に陽気が失われ、陰霊となってその魂徳も極めて希薄となり、純陽の霊域(神仙界を始めとする高次の諸仙界)に至ることを得ず、その多くは地に属する幽界に入って夢幻のように存し、転生や再生といった再修業の機会を与えられなければ次第に凝結力が失われ、やがては大霊に帰することとなります。 #0222【尸解の玄理(1) -神化の道-】>>
 しかしながら、甚だしく悪念や怨念が凝結した者の霊魂は凝結が容易に解けることがなく、悪気や濁気が充満する重濁な界に属して永く苦痛を受けることとなりますが、これも自らが招いた結果であり、ただ造化の玄理に従って自然に配属先が決定されるのでしょう。 #0144【『仙境異聞』の研究(9) -人や鳥獣の魂の行方-】>> #0273【『幽界物語』の研究(43) -幽界の禍物-】>> #0275【『幽界物語』の研究(45) -人霊の行方-】>>

 さて、太玄生符はその語が示す通り「生」に関する霊符で、「太玄」の字が冠せられているのはその宗符であるからですが、水位先生も「太玄生符と云へるは幾万符ある中の第一等にてこの符に勝るものなし、これ口を極めて云ふ」と手記されています。
 この太玄生符は水位先生が口を極めて「第一等の符」と云われるだけあって、その消息については数ある道書類においても老子の伝に見えるだけで、それによると、老子が弟子であった徐甲にこの符を施行し、人寿が尽きた後も二百余年に亘って生命を保たしめたのですが、徐甲が美女に出逢って婚姻を願い、老子に対して二百余年分の雇用金を請求したところ、太玄生符が忽(たちま)ち除甲の口中より飛び出し、その肉体は瞬時に白骨となったことが伝えられており、これは太玄生符の施行法の消息の一端が漏れたものでしょう。
 水位先生によれば、太玄生符は総じて六十四符あり、万霊の集散去来に関する生符の根本符で、伊邪那岐神及び少名彦那神が主宰し給う至重至秘の尊符であり、人間道士はもとより下位の神仙や仙人、山人という位階を有する者ですら総符六十四符の消息に精通することは許されず、支那仙界の神仙でもこの内の三十余符を伝承されるのみであることが伝えられています。 #0235【『幽界物語』の研究(5) -幽界の位階-】>>

 地上における帰幽霊の出自進退集散に関す消息は幽事中でも最大の幽事に属するものとされていますが、かくして水位先生は、万霊万神を生み給いて北天神界に鎮まります大尊神・三天太上大道君天皇大帝伊邪那岐大神の代命として神集岳・万霊神岳を始め諸多の神仙界を主宰し給う宇宙的大神仙・東海大神仙王金闕上相大司命青真小童大君少名彦那大神より太玄生符法や六甲霊飛法を始め諸々の神法道術を直々に伝授され、その多くを人間界に招来されたのでした。

2018年9月20日木曜日

『異境備忘録』の研究(10) -諸真形図-

「明治十年一月二十九日黎明、小童君に伴はれて神集岳大永宮に至る。午十二時頃、要用万事済みて帰る時、川丹先生の室に入らせ給ふ。この時、諸々の真形図(しんぎょうず)を拝見す。その図各々左の如し。
 風元山真形図。游岳真形図。天関界図。冠長山真形図。河岳八元図。元都玉京山紫蘭真形図。浮根人長山真形図。玉宝五元真形図。混沌七化真形図。集霊山真形図。八会六岳真形図。細星真形図。玉女真鏡図。陽満星真形図。玉蘭橋真形図。三界別離真形図。五岳真形図。八史真形図。東井図。六甲通霊図。九宮紫房図。太清図。混成図。保録図。霊化図。天九図。九変図。常存図。九霊道仙図。導引図。洞中図。皇宝図。太一図。人鳥山真形図。明鏡図。八天柱真霊図。霊飛流門間真形図。上下九神域真形図。神洲真形図。西王母真図。太上観下霊宝五神山真形図。七宝山図。天皇三霊宮真形図。万笈神秘真形図。霊妙神秘柱岳真形図。鐘山真形図。崑崙山真形図。
 右の真図、皆余(よ)が手に入れて居るやらんも許容なければ語る事不成なり。」『幽界記』

 水位先生が師仙と仰がれた川丹先生つまり玄丹大霊寿真人の御常殿は、神集岳の公路である左英道と右英道の分岐点に当たる山紫水明な場所にありますが、上記の「川丹先生の室」は「要用万事済みて帰る時」とあるように、御常居の玉殿ではなく大永宮の庁域内に設けられてある川丹先生の公館のことを指しています。そしてこの時は、小童君つまり少名彦那神に伴われて大永宮に赴かれての帰途のことでした。 #0320【『異境備忘録』の研究(5) -玄丹大霊寿真人-】>> #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>
 人間社会でも、ここまで来たついでにちょっと某氏のところへ寄っていこうかというようなことは有り勝ちなことですが、「川丹先生の室に入らせ給ふ」という敬語を用いて記されているのは、それが少名彦那神の御発意によるものであり、共に川丹先生の弁公室に入られたことを意味しています。青真小童君少名彦那神といえば宇宙的な大神仙で、神集岳及び万霊神岳の主宰神に坐しますが、こうした大神が水位先生を伴われて気軽に川丹先生の弁公室へ立ち寄られるというのですから、その御親愛のほどを窺い知ることが出来ます。 #0322【『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-】>> #0323【『異境備忘録』の研究(8) -青真小童君-】>>
 この時水位先生が拝見した諸々の真形図は、「許容なければ語る事不成なり」とあるように重秘の霊図ばかりで、その豊富さから推しても優に大霊寿真の上位である川丹先生の御位地を窺うに足るものがあります。五岳真形図序文に、「霊真の位階に至った信(しるし)として玄台より五岳真形図を出してこれを授く」ということが記されていますが、神仙界では仙階級位の昇任がある毎に位階相応の真形図や霊符を授けられるのが慣例のようです。

 思うに神仙界の真形図や霊符は、授けられた真形図相当の神境への出入を許され、またその符図の霊験相応の霊的能力を与えられるものと考えられます。得道した真人はまず太玄生符を授かりますが、進位して判令八等という位階になると、判令八等符という霊符が授けられることが水位先生によって伝えられています。 #0324【『異境備忘録』の研究(9) -長生不死の道-】>>
 それには二符あり、一符は辟魔(へきま)符で、もう一符は風波を止める符ですので、判令八等という位地になると風波を静めるほどの実力を与えられるということを意味しています。これは、その仙階の級位相当の霊符を授けられて、その霊符の霊威によって風波を止める神法道術が行われるものと解されますが、かくして次第に上位に進級するに従い、下級の符術の霊験は既にその神胎に添うところの一つの霊徳と化して、ほとんど符図の施行等を要せずして自在に駆使されるに至るものと拝察されます。 #0268【『幽界物語』の研究(38) -自然現象の幽理-】>>
 宇宙間の森羅万象にはことごとく生々化々の相(すがた)が見えますが、神法道術はその変化の枢機を扱うものであり、宇宙変々化作(けさ)を掌る神仙達が、変化の要法である神法道術を尊重するのは正に当然のことで、その役職に満たない未熟な者が実行すれば異変を生じることも十分にあり得ますので、人間道士に対してそれ相応以上の神法道術が授けられないことも頷けます。

 宮地厳夫先生は明治十一年七月七日、水位先生から神集岳真形図を授けられて手箱山に登拝されましたが、これが実に厳夫先生の神仙界出入の第一歩で、まず真形図の図気の感格修法によって、神集岳の気線に直結する手箱神山の神境に入るべく宮地常磐先生より指示されたのでした。 #0317【『異境備忘録』の研究(2) -手箱山開山-】>> #0319【『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都-】>>
 真形図や霊符の霊験というものは、符文相応の気線なり真形図相当の霊界が現存するからこそ、その気線なり神仙界に感通しますので、あたかも写真を見ながらその現存の地を探し当てるようなものであり、それだけに符文なり真形図の正確さということが肝心です。つまり改作を加えたり脱漏があると正しい現物に符合せず、符節を合することが不可能なために正しい感応を得ることが出来ませんので、神仙界で真形図や霊符などを特に秘密にされるのはそれだけの理由あってのことです。
 これは人間界においても、「己」と「巳」と「已」では一見してその差は僅かなものですが、意味が全く異なることから考えても納得出来るはずで、霊統上の神祇師仙とのつながりを無視し、自らの欲望を満たすために偽図、偽符、偽秘詞などの偽伝を売買する輩が、神幽の道を害する者として冥罰の対象となるのも当然のことでしょう。 #0244【『幽界物語』の研究(14) -神法道術-】>>
 卑近な例えかもしれませんが、現存の人物の写真を入手した者は必ずその写真を頼りにその人物を探し当てられるようなもので、正確な神仙界の真形図を得てこれを記憶に留め、観想を怠らなければ、必ず現存する真形図相当の神仙界に出入するに至りますので、霊真の位階を得た真人達に神集岳の「玄台」と呼ばれる幽宮より五岳真形図を出してその信としてこれを授けるのは、要言すれば五岳にも出入する徳力を与えられたことを意味します。

「明治十年三月五日夜、川丹先生に伴はれて大永宮に入る。この時、堅磐(かきわ)も玄台開監令に進位せり(この玄台は天関に非ず)。常に神界にて文等奉るには神界にて給はりし位官を書すなり。」『幽界記』

 水位先生は二十四歳の砌(みぎり)、その「玄台」の責任ある官職に任ぜられ、三天太上大道君伊邪那岐大神が太古に虚空より俯瞰して親写された五岳真形図の原巻を始め、玄台に秘蔵される諸々の尊貴なる霊図・秘書・仙籍の類を閲覧することを許されるに至ったのですが、その時の神仙界への上奏文には「神集岳二十八令之内、五宝官七等兼玄台開監令、賜玉京山紫蘭上殿符並奇文第四等」という位階が記されています。
 先生の『再来病中日記』明治三十四年の条に、「道書三千七十二部を読み終はりて後、今日に至りて仙書を熟考するに、三千七十二部の中に真と認むるもの十一部にて、他は皆偽仙の妄説のみ、然(しか)るところ真伝十一部の中にも妄説混合せり」と記されていますが、神仙道における先生の奇想天外ともいえる専門的な知識は、実にこうした破格の立場によって得られたのでした。

2018年9月19日水曜日

『異境備忘録』の研究(11) -「運命」の正体-

『異境備忘録』の研究(11) -「運命」の正体- 

「小童君が神界にて司命の簿籙(ぼろく)を毎年十月九日より改定し給ふ時は、御頭に金色なる簫(笙)に似たる物を二つ合せたるが如き冠を召し、その中より孔雀の尾、三尾を出し給へり。左の御手に、長さ三尺ばかりの丸木に白玉三十二貫きたる緒の総(ふさ)の付きたるを持ち給ひて、霊鏡台に向ひて座し給へり。」『異境備忘録』

 地上人類はもとよりのことですが、顕界及び幽界の一切の生類、およそ宇内に生存する限りの万霊万魂の生命の根元を掌り給うのは、造化三神(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)の御手に代わり給いて神人万霊万魂を生み給いし三天太上大道君伊邪那岐大神で、それは三貴子をさえ生み給いしこの父大神が、その御自ら生み給いし万霊万魂の上に御心をかけさせ給う御神愛として当然の御事であると拝察されます。 #0030【天地万物造化のはじまり】>> #0062【三貴子の誕生】>>
 その伊邪那岐大神の代命として、顕属・幽属を問わず万霊万魂の司命の簿録を改定し、それぞれの将来の命運を決定し給うのは神集岳及び万霊神岳の主宰神・青真小童君少名彦那神で、それは現界の十月九日から十一月八日に当たることが水位先生によって伝えられています。 #0322【『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-】>> #0323【『異境備忘録』の研究(8) -青真小童君-】>>
 その万霊万魂の命運に関する決定は、神集岳紫籍府の司命簿録に記録され、その簿録に記すところによって各司命神の所管に移されて実行されるのですが、これが俗に「運命」と称されるものの正体であり、十一月九日が運命更新の始期で、大司命節中の決定によって万霊万魂はことごとく新たなる運命の第一歩を踏み出すこととなります。
(その対象となる宇内に生存する限りの万霊万魂とは、人類を始め帰幽霊やその他動植物の諸霊、或いは神祇真人を始め山人や愚賓、邪神や妖魔に至るまで、顕属・幽属を問わず一切の生類ですので、少名彦那神及び神集岳紫籍府の宇内における大いなる権威のほどを窺い知ることが出来ます。 #0235【『幽界物語』の研究(5) -幽界の位階-】>> #0273【『幽界物語』の研究(43) -幽界の禍物-】>> #0319【『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都-】>> )

 人間界の占い等が当たらないのはこの幽事を弁えていないからですが、運命というものが顕界の人間のみに属性として存すると考えるのがそもそもの誤りで、運命の奇は顕幽を通じて自己一身のみに止まらず、子々孫々にも遺伝し、同時に幽界に存する累代の祖霊の命運にも影響を及ぼし、水位先生所伝の秘詞の一節にも、大功によって「七祖父母の冥罪を解くを得、累業の先代々の結びを解く」とあり、その霊的事実が明かされています。
 つまり、先祖以来の運命の遺伝も受ければ、また自らの運命をも子孫に遺伝し、それと同時に自らが作出する善運により、七祖に遡ってその冥罪を解くことも可能ですので、その罪科の解除による功徳は再び遺伝の法則によって自らがこれを受けるのですから、真に運命を吉化することは自己一身に止まらないのです。 #0040【魂と心の関係(2)】>>

 大司命節においては、神集岳紫籍府の司命神より提出される記録があり、少名彦那神はその奏告の簿録を照鑑されつつ最終決定を下されるのですが、この簿録には前年の大司命節における決定以後の一年間に亘る各人各霊の一切の言行の是非善悪、美醜動息、罪障過咎を巨細(こさい)漏れることなく記されており、その一年間の行蔵功過とその関連する所を勘考された上、前年の決定に改定を下し給うので、顕属である現界人においては基本的運命に変更を加えられ、或いは生録より死録に転じ給うこともあり、或いは死籍より転じて寿算を加え給うこともあるでしょう。 #0263【『幽界物語』の研究(33) -寿命について-】>>
 『太上感応篇(神仙感応経)』に、「天地に司過の神有り。人の犯す所の軽重によりて、以て人の算を奪ふ。算減ずれば則ち貧耗にして、多く憂患に逢い、人皆これを悪(にく)み、刑禍これに随い、吉慶これを避け、悪星これに災いし、算尽くれば則ち死す。又、三台北斗の神君有り。人の頭上に在りて、人の罪悪を録し、その紀算を奪う」とあるのも司命の秘機が漏れたものでしょうが、奉道の士が修道上の成果を鑑みて仙籍への考定を賜るのもこの大司命節における幽事の重大な御儀となっていますので、特にこの期間中は言行を慎み、「過ち犯すことの有るをば見直し聞き直し給え」と祈念申し上げ、修祓を怠ることなく心身を祓い清め、さらに積徳にも努めるべきでしょう。 #0199【清明伝(2) -心の祓い清め-】>> #0230【尸解の玄理(9) -求道の真義-】>> #0256【『幽界物語』の研究(26) -積徳について-】>> #0269【『幽界物語』の研究(39) -神罰-】>> #0282【『幽界物語』の研究(52) -諸々の霊的事実-】>>
(『仙境異聞』及び『幽界物語』にも、毎年十月に諸々の神々や仙人等が出雲の大仙境に集会されることが記されていますが、高山寅吉が「氏神は氏子などの当年中の善悪を申し、来年中のことを定め、家内に祭る神たちもそのことで集まり給う」と述べているように、この幽事も大司命節と深く関係を有するものと思われます。 #0252【『幽界物語』の研究(22) -出雲の大神-】>> )

「或る年、川丹先生に伴はれて土佐国の○○○山と云ふに至りけるに、白髪白髭の老翁大なる帳面を携へて笹の上に坐(ま)したるに、川丹先生九拝し終り、詞(ことば)も出さず遥か傍に坐し居たるに、大蛇に乗りたる神、御年頃二十五、六歳ばかりなるが東方より来り給ひて、「大山祇神の使者なり」と大音に述べ給ふがいなや、乗り給ひし大蛇は消えたり。
 又、東方より小さき蛇に乗り色黒き神来り給ひて、「建御名方神の御使なり」と申し給ふ。その御声と共に小蛇は消滅したり。又、東方より白狐に乗りたる神の年頃八十歳ばかりの老翁来りて、「宇賀神の使者なり」と申せば狐の形は忽(たちま)ち消えたり。又、東の方より白兎に乗りたる神来り給ひて、「氷川の神三柱の御使者なり」と宣へば白兎は忽ち消え失せたり。又、西方より鳩に乗りたる神来り給ひて、「八幡二神の使者なり」と申せば鳩は消えたり。乾(いぬい)の方より五色の小蛇に乗りたる神来り給ひて、「大国主神の使者なり」と申せば小蛇は消えたり。又、北の方より猿に乗りたる神来り給ひて、「日枝三神の御使なり」と述べ給ふがいなや、猿は消え失せたり。この外に物に乗りたる神等(かみたち)数多(あまた)来り給へども、乗物及び神名も忘れたり。 #0267【『幽界物語』の研究(37) -現界の生類-】>>
 諸々の神等、大帳面を携へ給ふ老翁の神に拝礼をなして、各々又小さき帳面を出して翁神に捧げ給へば、大帳と引き比べて小首を傾け或は頷き、大帳に何か書き入れ給ふ状(さま)の見えけるが、翁神暫時(ざんじ)にして、「諸神の御使者大儀々々」と大音に演(の)べ給ひ、且つ「川丹大霊普全寿真人、冥鑑の代理御大儀」と申し給へば、翁神忽ち消えていなや音楽の音しけり。
 その時、諸神は同音に「エイ」と云ふ声を発すれば、乗り給ひし物皆現れてそれに乗り、一礼をして立ち還り給ふ。これには大切なる訳ある故に洩らしつ。然(しか)るにこの時は太陰暦十二月晦日なり。」『異境備忘録』

 神集岳紫籍府の代理として差し遣わされた川丹先生(玄丹大霊寿真人)が九拝の礼を執り、言葉も出し得ずに遥か下座で恐れ慎みながら命を待つ場景からも、この老翁が高位の尊神であることが窺われますが、この翁神こそは三天太上大道君伊邪那岐大神に坐し、この奏告の儀は各神所治の現界人及び帰幽霊の司命に関するものの内で特に罪過に関わるもので、少名彦那神の決定に微修正を加え給うものであり、川丹先生は神集岳の刑法所である退妖館(たいようかん)の代理としてこの奏告の御儀に立会いされるため、水位先生を伴われて赴かれたのでした。 #0320【『異境備忘録』の研究(5) -玄丹大霊寿真人-】>>

「神界にて死期を尋ぬるは大なる忌事(いみごと)にて、それを強(しい)て尋ねる時は、「何月何日に死す」と云ふて年数を云はず、又無理に年数を尋ねる時は、「今現世に居る何の某老人の死する年月日と同じ。その人死すれば、その人の死したる年に至り、その月日に死す」と云ひて、強(あなが)ちには死期を云はず。これは極めて神界の秘密なり。余(よ)、この事を川丹(せんたん)先生に尋ねたる時、小童君の御怒りを互に受けたる事あり。これは深き幽理のある事と思ふ由(よし)あり。」『異境備忘録』

 「死」は大司命節において、その人が生録より死録に転じることによって行われますので、神仙界においても極めて重秘のことで、ましてや人間界に伝えることは断じて許されない秘事であるものと思われます。
 さて、『異境備忘録』やその他の手記にもこの大司命節については水位先生が自ら抹消されている箇所が多く、或いは途中で筆を断たれている所もあり、この神秘の実相を人間界に招来することについては隠微な幽理が存するものと思われますが、このような形で公開したのは恐らく初めてのことで、次回の大司命節においてはさぞ物議を醸すであろうと恐懼(きょうく)する次第であります。

2018年9月18日火曜日

『異境備忘録』の研究(12) -神仙界の御掟-

『異境備忘録』の研究(12) -神仙界の御掟- 

「明治元年の頃、川丹先生に伴はれて空中を飛行するの砌(みぎ)り、雲霧の中を凌(しの)ぎ行きけるが、東南の方より螺貝(ほらがい)の音高く響き来るあり。川丹先生の云ふ、「饒速日命(にぎはやひのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと)の御通りなり」とて、拝しける間に螺貝の音近くなりしが、雲霧忽(たちま)ち晴れたるに金光のキラキラとして乾(いぬい、北西)の方に鳴り行きたり。
 川丹先生の云ふ、「饒速日命と五十猛命は幽冥界にて螺貝を吹き給ふが御職なり。この神の螺貝の音を聴く時は、その後とても幽府の神楽の音も深更(しんこう)に及びては遠音に聴かるなり」と云へり。さて、かの金光の通りし後は又雲霧となりたり。
 川丹先生の云ふ、「螺貝は雲を払ひ神言を遠きに告る用なり」とて、飛行するほどに又乾の方より以前の如く金光の中に螺貝の音しけるが、又も雲霧忽ち晴れ、金光の後に螺貝に鰭(ひれ)のある物数十連れ立ちて従ひ飛び行きけり。」『異境備忘録』

 饒速日命は長髄彦(ながすねひこ)が奉じた神で、後に神武天皇に帰順されたことが『古事記』に見えますが、『日本書紀』によれば、神武天皇の御東征に先立ち、天照大御神から十種(とくさ)の神宝(かむだから)を授かり、天磐船(あめのいわぶね)に乗って河内国の河上の地に天降り給いし神とされており、つまり神武天皇を補佐するために秘かに高天原(太陽神界)より派遣された天津神であることが分かります。 #0170【初代天皇命、定まる】>> #0188【神倭伊波礼毘古命の誕生】>>
 五十猛神は別の御神名を禍津日神(まがつひのかみ)、また大屋毘古神(おおやびこのかみ)とも称しますが、神代第二期の伊邪那岐神の禊ぎ祓いの際に成り出でた化生神で、その分魂は常に須佐之男命と行動を共にする天津神とされています。 #0049【化生神と胎生神】>> #0084【五十猛神の功業】>> #0110【大屋毘古神のカムハカリ】>>

「明治四年十二月晦日(みそか)夜明け方、小童君に伴はれて北氷洋を過ぎたる時に、氷海を過ぎれば氷山あり。その北岸より幾千仭(いくせんじん)を知らず大滝数ヶ所に下り、その光月の如く空に映じ寒気最も強く、この所を過ぎ行くに西南と思ふ方より音楽の音して、東北に過ぎるを見る。
 女神に随従の神、千余ばかりも付きたり。小童君と出会ひし給ひて互に慇懃に礼を述べ給ひて別れ給ふ。小童君に伺ひければ、「須勢理姫神(すせりひめのかみ)なり」と宣(のたま)ひけり。この神、御年三十歳ばかりに見え給ひて、御面(みおもて)美(うるわ)しく坐(ま)しまして、御頤(みおとがい、御下顎)は少し長き方に見奉りき。
 又行くほどに暖気の所にかゝりて、下に黄黒き色を見て、又寒き所を経て、又暖所にかゝり、海面を下に見て行くまにまに、漸々(ようよう)降りて一つの島に着きてければ、こゝにて休息す。小童君宣(のたま)ひけるは、「地球を一周回したり。この所は琉球の属島なり」とて、暫くしてこゝを立ち土佐国へ帰る。それより我が家に送り給ひしは一月一日の黎明なり。」『異境備忘録』

「明治八年四月十日、玄丹先生に伴はれて神集岳・方義山の大永宮に至る。この日は列仙会合の日に付、五十余仙に拝謁す。その中に利仙君は孔雀の尾を以て冠とす。王母は孔雀形黄金冠を頂く。高位の仙は皆刀剣を帯び、腰に三つの玉を付け、令と云ふ物を持つ。夜に入りて酒宴。」『幽界記』 #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>

「現名・藤原平次、幽名・清浄気玉利仙大君(せいじょうきぎょくりせんたいくん)は常に九州の山中に居して、従者も多くある中に、浄伊白龍道異人、現名・劉燕渓、清玉異人、現名・劉応明、清達胆方異人、現名・諸葛潜良、清観法当異人、現名・許湯清、清長立異人、現名・楊寉明、清泉谷異人、現名・劉能道、利法異人、現名・張全了、清通異人、現名・文玄角、清道井華異人、現名・応伝仲、清山方治異人、現名・呉伯景、清方日龍異人、現名・墨孔易等は支那国の産(うまれ)なり。
 清角陽異人、現名・弘井権大夫藤原親春、三清五位異人、現名・佐伯次郎高綱、奇見異人、現名・高井三郎行国、利清行異人、現名・堺六郎左衛門宗幸、浄玉道異人、現名・吉永熊三郎、清玉心異人、現名・島田幸安重信、沢林浄玉異人、現名・山崎八九郎基信等は日本の産なり。
 この異境中の巻物の文字は、○○○○○○○○○○○○等書ける秘文の長句あり」『異境備忘録』

 清浄利仙君は、地界においては赤山と呼ばれる仙境を主宰され、島田幸安(清玉心異人)を通じて参澤明先生を啓導された神仙で、詳しくは『幽界物語』にその御消息が見えますが、神集岳にも出入りされる高仙であることが分かります。 #0233【『幽界物語』の研究(3) -幸安の師・清浄利仙君-】>>
 「王母」とは西王母・須勢理姫神のことですが、清浄利仙君ほどの高仙がその御神号を認(したた)めることを憚(はばか)られるほどで、神集岳及び万霊神岳を主宰し給う青真小童君・少名彦那神と互に慇懃に礼を述べ給うあたりからも、幽冥大神(かくりよのおおかみ)である夫神・大国主神と共に高位の尊神であることが窺われます。 #0107【大国主神と須勢理姫神の運命的出会い】>> #0252【『幽界物語』の研究(22) -出雲の大神-】>> #0322【『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-】>>

 水位先生が神仙界に出入りされたのは十歳の頃からで、年少時より高貴な神々に接見されていた先生にとって、人間どもが卑賤に見えて仕方がない時期があったとしても、それは致し方のないことでしょう。 #0318【『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-】>>
 宮地家に出入りされる多くの家庭教師達に対しても、決して「某先生」とは呼ばず、「山中」「吉岡」等と呼び捨てにされたようで、まず書道教師の志和氏と吉岡氏がすっかり憤慨して家庭教師を辞任してしまいました。先生が年譜に「習字僅か八ヶ月、その後習字せず、故に頗(すこぶ)る鈍筆拙劣なり」と記されているのはそのことで、晩年にもこのことを追憶されて、このために著述に関して生涯においてどれくらい損をしたか知れないと述懐されています。
 先生は後になって深くこのことを悔い改められましたが、年少時よりその気鋭は生涯変わることなく、しかも武道で鍛えられた堂々たる体躯の持ち主で、さらに眉目秀麗な好男子であり、音声も朗々として真っ向から直言的に痛快な言葉で話される方であったことは、宮地厳夫先生の令息・威夫先生が父君より承っているところです。 #0316【『異境備忘録』の研究(1) -概略-】>>

「神仙界に初めて入りたる時は尊き神等の御側近く参りて、御慈愛を蒙(かがふ)る事もあれど、度々参り出る事の重なる毎に、その御界の掟など漸々(ようよう)に知るが随(まま)に遠ざかり、後には御側近く参ることも尊き御位に恐れ、且つその御掟によりて近くは参る事叶はざるなり。この界、人間の位は役に立たざるなり。
 御側近く参る程は、天地開闢よりして後の絵巻、諸々の真形図、八散結界八定秘中霊文、八散後連八会上下飛文を始めて古今神階列図など題したる物を拝見する事も得るなり。然(さ)るを我が神仙の位階定まりて、容易(たやす)く拝見し難きは更にて、その題名をだに拝聞する事叶はざるなり。 #0325【『異境備忘録』の研究(10) -諸真形図-】>>
 初めて神仙に伴はれ参る時は、その御界の掟をば少しも知らぬものにしあれば、必ず奇妙の霊物を拝閲する事多し。又、位階定まりて後は、上古より今日に至るまでのこと、又天地間にあらゆる物及びその理(ことわり)をも明らかに極むる事は更にて、自由自在なる事もその御界にある内は儘(まま)なれども、人間界に帰りては一つも自由ならず。その御界にありし程の奇妙なる事は忘れ果てゝ、人間に洩らして閊(さしさわり)なき条のみ夢の如くに覚えたるものなり。」『異境備忘録』

 利(き)かん気一本の十歳の少年である水位先生の神仙界入りは確かに異彩というべきであり、行く先々で高貴な神祇大仙や女仙達から破格の御愛慈を蒙られたので、紅顔可憐で恐れを知らない天真爛漫の異童が、相当どころの仙真達に対して伯父さんや伯母さん並に慣れ親しまれた御姿を想像すると、自然に微苦笑を禁じ得ません。
 さて、「この界、人間の位は役に立たざるなり」とありますが、『幽界物語』中でも島田幸安が「幽界に入っては王侯も庶人も同じです。人界の官位は人間一世のもので、仙境に入る者は皆いったん位階を離れます。人界での修学神信心の道徳によって、その位を定めることになっています」と語っています。
 また、幽界では厳格に位階が定められ、様々な掟が存することが『幽界物語』中に見えますが、神仙界においても厳律が存することが窺われます。 #0235【『幽界物語』の研究(5) -幽界の位階-】>>

2018年9月17日月曜日

『異境備忘録』の研究(13) -杉山清定君- 

 宮地水位先生が初めて杉山清定君(せいじょうくん)と称される神仙に拝謁したのは明治八年の四月一日で、その夜水位先生は吸江橋上より玄丹大霊寿真人(川丹先生)に伴われて神集岳神界に赴かれました。 #0320【『異境備忘録』の研究(5) -玄丹大霊寿真人-】>>
(吸江橋は高知県の浦戸湾に注ぐ下田川の最も下流に掛かり、現在も五台山と高知市内を繋ぐ大橋です。)
 この時は神集岳の西方より通じる洞穴より入られたのですが、この洞穴はトンネルのように山腹を貫通するもので、その入口には番所があり、洞穴を通り抜けると大川があって渡船場があり、これを渡って上れば大きな堤が見え、その堤まで三丁(約327m)ほど歩行して堤上に上れば突如として眺望が開け、方義山・大永宮を始め諸仙宮並びに大海も見えるのです。水位先生はこの堤上より川丹先生と共に遥かに大永宮を拝せられ、道を杉山清定君の宮殿に辿られたのですが、以下先生の原文によりその様子を承ることに致します。 #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>

「それより北に山をうけたる磯辺を伝ひて行く事五丁ばかりにして郭中の如くなる所に入り、凡そ八丁ばかりにして杉山清定君の宮に至る。柳の丸木にて造れる大門あり、左右に垣あり。逆茂木(さかもぎ、先端を鋭く尖らせた木の枝を外に向けて並べて結び合わせた柵)の如し。その左の方に当たりて幅十間(約18m)ばかりの川あり。甚(はなは)だ急流なり。その門の淵と柳木大木にて、網代(あじろ)に組みたるもの、水防且つ上の垣を重ねたるものあり。
 さて、御門内に入れば右○を上る事凡そ十間ばかり上り詰めたる所の左右に玉垣あり。玉垣は皆木化石(ぼっかせき)にして瑪瑙(めのう)なり。それより平地十間ばかり行きて即ち宮殿の階(きざはし)に至る。階の製(つくり)は梯子の如くにして幅四間ばかり丸木にて造る。○の木繁りあり。それを上る事三間ばかり、小○を見せたる丸木の椽(たるき)(木はなめし桜なり)幅四尺(約1.2m)ばかりなるもの長さ十二間ばかり。それより座上になる。座席は唐○の如きものにて製せり。奥行三十間ばかり、屋根は竹を寄りたるものにて、葺く屋根の千木(ちぎ)最も高大なり。栗の丸木を以て造る。
 玄丹先生に引かれて進みて上殿す。左右には数百の仙女、頭髪垂れて帯に至り、その美麗言語を絶す。過半は羽団(うちわ)を持ち、風令(ふうれい)を持ちたるは少し。その中を敬礼して通り進みて浜椽(はまえん、向拝の階段の下にある床)に至る。ここに着座す。
 仰ぎて参拝するに清定君御身長七尺、青服を召させられ、下には白き小袴の如くなるを召され、巖座に腰を掛けさせ給ひ、後に寄り給ひて御手には羽団を持たせ給ふ。頭髪口髭純白にして実に可尊可恐の尊神仙なり。万事拝謁の式終りて夜、元の橋上に玄丹先生と帰る。」『幽界記』

 杉山清定君の御本居は神集岳中の方義山にある大永宮の西方にあり、水位先生が心覚えに図示されたものもありますが、先生はこの御本居のことを記される場合は「宮闕(きゅうけつ)」という語を使用されているほどで、この宮殿が美麗を極めたものであることを表しています。
 先生が川丹先生に引かれて上殿し、仰いで尊神仙・杉山清定君の御尊容を拝した時のことはよほど感激的だったようで、この拝謁式の様子については更にその詳細を図写して記録されています。
 宮殿は神社の拝殿と本殿のように前殿と後殿に分かれ、拝殿に相当する所が六室となっており、その左右に奉仕の仙官達が控えておられ、右方は男仙、左方が女仙の室になっています。この前殿の奥行は一丁(約109m)ほどで、間口は一丁半に及んでいます。
 この前殿と清定君の御座所である後殿の間は渡り廊下で、長さは五間(約9m)ほどで、後殿は前殿よりは二丈(約6m)ほど高く造られており、階段を上り詰めたところの座席の左方に童女の控室があります。また、回廊に沿って右方に突き出て女仙の控室があり、この御本殿には男仙達は坐さないようです。後殿の左側の椽は海浜に接し、中央の御座所は天然の巖石を取り入れた雄大な構想の下に造られており、前殿と後殿を連ねた奥行は二丁にも及ぶ広大さで、これらの記録から推測してもその高貴なる御神階のほどが窺われるはずです。

「明治九年一月十五日夜、日向国に至りて御禊祓を利仙君に受く。帰る時、利仙君に問ふ、「杉山僧正君(これは清定君の事)は寅吉を愛でし給ふ事あり、仙境異聞と申す書に見え候が、実に候や」。答給ふに、「清定君の神分と云ふ官に居(おり)たりし時、冥罪を得て人間(じんかん)に出たる時、従者に致せし者なり。」『幽界記』

「杉山僧正が川丹先生の命(めい)を受けて東京の平川町と云ふ所を焼きたる事あり。これには故ある事なるが、その焼く状(さま)は種々ありて、血を落とすも羽根を落とすもある中に、空より大指の爪先より血を出して火となし落としけるに、その下俄(にわ)かに大火事となりたるに、天狗等数々飛び来りて、鳶に化して火にあたりし事あり。奇妙なる事なり。」『異境備忘録』 #0157【『仙境異聞』の研究(22) -穢火は魂をも穢す-】>>

 高山寅吉を岩間山仙境に伴った杉山僧正は、杉山清定君が「神分」という官位に在られた時、冥罪を得て人間界に出られた事情があり、尊貴な神仙級になると従属の仙官も数多く、ある場合には上仙として種々監督上の責任を取られることがあり得ることは現界の事情と同様でしょう。 #0141【『仙境異聞』の研究(6) -寅吉の師・杉山僧正-】>>
 この種の罪の種類によっては、御本身はそのまま現職に留まり給い、その分魂が謫仙として人間界に出られ、或いは山人界の一僧正として一つの仙境を主宰されるようなこともあり、幽界のこうした消息は、簡単に人間的俗識で思量することを許されない複雑性を持っています。 #0118【大国主神の幸魂奇魂】>>
 神集岳の官属である川丹先生が杉山清定君の御前を畏(かしこ)み謹んで拝し、また謫仙としての杉山僧正が、一山人僧正として川丹先生の命を受けて民家を焼き払うなどといったことも格別矛盾することではなく、このようなことは、神仙界においては極めてはっきりした規律の下(もと)に行われているようで、人間的俗情で矛盾を感じるような環境が全く矛盾なく統制されているところがいわゆる天機たる所以(ゆえん)でしょう。
 また、清浄利仙君によれば「嘉津間(かつま、寅吉のこと)が杉山山人の使いとなり、清玉(幸安)が赤山の仙使となったのも皆訳のあることである」とのことですが、杉山僧正と高山寅吉は太古の昔から深い縁で結ばれていることが分かります。 #0254【『幽界物語』の研究(24) -平田篤胤大人のこと-】>>
 さらに杉山清定君が、在世中に杉山僧正を師仙と仰がれた平田篤胤先生と水位先生との対面の機会を与えておられることも一奇で、平田先生が在世中、「日々津高根王命(ひびつたかねのみこのみこと)」と称えて毎朝神拝を怠らなかった神仙と杉山清定君の御本体とは無関係ではなく、この尊神の正式な御神名は天之息志留日日津高根火明魂之王命(あめのおきしるひびつたかねほあかるたまのみこのみこと)杉山清定全君と称することが水位先生によって伝えられています。

「明治九年十月一日、清定君に伴はれて神集岳に至る。この時平田先生に対面す。先生は今、大永宮の内、衆議官に居られ、御名を羽雪(うせつ)大霊寿真仙と申す。」『幽界記』

 平田先生は伊勢国・海幽山の神仙と成られていることが『幽界物語』中に見えますが、その御本身は神集岳の尊官であり、その分魂神が海幽山仙境を主宰されているものと拝察されます。
 なお、水位先生も初めて杉山清定君に拝謁された時のことは余程心に留められたようで、明治八年の六月十日(この時、水位先生は二十二歳の青春時代でした)、浦戸・龍王宮で川丹先生に御会いした時、そっと御伺いをされています。

「この時、余(よ)問ふ、「清定君に従ふ仙女に天癸(てんき)の穢ありや」、答ふ、「五百人の中、十八歳にて容貌を留むる女仙七十四人、これ月の穢なし。故に子もなし。その余の仙女は穢あり。その時は九日の間山を下りて平嘉の台と云ふ所に居る」と。」『幽界記』

 天癸とは女性の月経のことですが、高貴な神々の中に胎生神(男性神と女性神の合歓(ねむ)の道によって女性神の肉体から生まれる神)が坐すことからも、神集岳の女仙に月経があっても不思議なことではないでしょう。 #0049【化生神と胎生神】>> #0059【人類の祖先は本当に猿類か?】>>
 ちなみに、杉山清定君の側近の仙真と女仙の間に御子が生まれたこともこの時の話に見えますが、寿真達の間ではいつも仁義道徳惟神(かんながら)の道に関する硬派な話ばかりでもなく、色々な噂話も上るようで、それが女仙達となると矢張り御女性だけに一層肩の凝らない朗らかな話題に御賑わいのことと拝察される次第です。 #0250【『幽界物語』の研究(20) -女仙の姿-】>>