2018年9月17日月曜日

『異境備忘録』の研究(13) -杉山清定君- 

 宮地水位先生が初めて杉山清定君(せいじょうくん)と称される神仙に拝謁したのは明治八年の四月一日で、その夜水位先生は吸江橋上より玄丹大霊寿真人(川丹先生)に伴われて神集岳神界に赴かれました。 #0320【『異境備忘録』の研究(5) -玄丹大霊寿真人-】>>
(吸江橋は高知県の浦戸湾に注ぐ下田川の最も下流に掛かり、現在も五台山と高知市内を繋ぐ大橋です。)
 この時は神集岳の西方より通じる洞穴より入られたのですが、この洞穴はトンネルのように山腹を貫通するもので、その入口には番所があり、洞穴を通り抜けると大川があって渡船場があり、これを渡って上れば大きな堤が見え、その堤まで三丁(約327m)ほど歩行して堤上に上れば突如として眺望が開け、方義山・大永宮を始め諸仙宮並びに大海も見えるのです。水位先生はこの堤上より川丹先生と共に遥かに大永宮を拝せられ、道を杉山清定君の宮殿に辿られたのですが、以下先生の原文によりその様子を承ることに致します。 #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>

「それより北に山をうけたる磯辺を伝ひて行く事五丁ばかりにして郭中の如くなる所に入り、凡そ八丁ばかりにして杉山清定君の宮に至る。柳の丸木にて造れる大門あり、左右に垣あり。逆茂木(さかもぎ、先端を鋭く尖らせた木の枝を外に向けて並べて結び合わせた柵)の如し。その左の方に当たりて幅十間(約18m)ばかりの川あり。甚(はなは)だ急流なり。その門の淵と柳木大木にて、網代(あじろ)に組みたるもの、水防且つ上の垣を重ねたるものあり。
 さて、御門内に入れば右○を上る事凡そ十間ばかり上り詰めたる所の左右に玉垣あり。玉垣は皆木化石(ぼっかせき)にして瑪瑙(めのう)なり。それより平地十間ばかり行きて即ち宮殿の階(きざはし)に至る。階の製(つくり)は梯子の如くにして幅四間ばかり丸木にて造る。○の木繁りあり。それを上る事三間ばかり、小○を見せたる丸木の椽(たるき)(木はなめし桜なり)幅四尺(約1.2m)ばかりなるもの長さ十二間ばかり。それより座上になる。座席は唐○の如きものにて製せり。奥行三十間ばかり、屋根は竹を寄りたるものにて、葺く屋根の千木(ちぎ)最も高大なり。栗の丸木を以て造る。
 玄丹先生に引かれて進みて上殿す。左右には数百の仙女、頭髪垂れて帯に至り、その美麗言語を絶す。過半は羽団(うちわ)を持ち、風令(ふうれい)を持ちたるは少し。その中を敬礼して通り進みて浜椽(はまえん、向拝の階段の下にある床)に至る。ここに着座す。
 仰ぎて参拝するに清定君御身長七尺、青服を召させられ、下には白き小袴の如くなるを召され、巖座に腰を掛けさせ給ひ、後に寄り給ひて御手には羽団を持たせ給ふ。頭髪口髭純白にして実に可尊可恐の尊神仙なり。万事拝謁の式終りて夜、元の橋上に玄丹先生と帰る。」『幽界記』

 杉山清定君の御本居は神集岳中の方義山にある大永宮の西方にあり、水位先生が心覚えに図示されたものもありますが、先生はこの御本居のことを記される場合は「宮闕(きゅうけつ)」という語を使用されているほどで、この宮殿が美麗を極めたものであることを表しています。
 先生が川丹先生に引かれて上殿し、仰いで尊神仙・杉山清定君の御尊容を拝した時のことはよほど感激的だったようで、この拝謁式の様子については更にその詳細を図写して記録されています。
 宮殿は神社の拝殿と本殿のように前殿と後殿に分かれ、拝殿に相当する所が六室となっており、その左右に奉仕の仙官達が控えておられ、右方は男仙、左方が女仙の室になっています。この前殿の奥行は一丁(約109m)ほどで、間口は一丁半に及んでいます。
 この前殿と清定君の御座所である後殿の間は渡り廊下で、長さは五間(約9m)ほどで、後殿は前殿よりは二丈(約6m)ほど高く造られており、階段を上り詰めたところの座席の左方に童女の控室があります。また、回廊に沿って右方に突き出て女仙の控室があり、この御本殿には男仙達は坐さないようです。後殿の左側の椽は海浜に接し、中央の御座所は天然の巖石を取り入れた雄大な構想の下に造られており、前殿と後殿を連ねた奥行は二丁にも及ぶ広大さで、これらの記録から推測してもその高貴なる御神階のほどが窺われるはずです。

「明治九年一月十五日夜、日向国に至りて御禊祓を利仙君に受く。帰る時、利仙君に問ふ、「杉山僧正君(これは清定君の事)は寅吉を愛でし給ふ事あり、仙境異聞と申す書に見え候が、実に候や」。答給ふに、「清定君の神分と云ふ官に居(おり)たりし時、冥罪を得て人間(じんかん)に出たる時、従者に致せし者なり。」『幽界記』

「杉山僧正が川丹先生の命(めい)を受けて東京の平川町と云ふ所を焼きたる事あり。これには故ある事なるが、その焼く状(さま)は種々ありて、血を落とすも羽根を落とすもある中に、空より大指の爪先より血を出して火となし落としけるに、その下俄(にわ)かに大火事となりたるに、天狗等数々飛び来りて、鳶に化して火にあたりし事あり。奇妙なる事なり。」『異境備忘録』 #0157【『仙境異聞』の研究(22) -穢火は魂をも穢す-】>>

 高山寅吉を岩間山仙境に伴った杉山僧正は、杉山清定君が「神分」という官位に在られた時、冥罪を得て人間界に出られた事情があり、尊貴な神仙級になると従属の仙官も数多く、ある場合には上仙として種々監督上の責任を取られることがあり得ることは現界の事情と同様でしょう。 #0141【『仙境異聞』の研究(6) -寅吉の師・杉山僧正-】>>
 この種の罪の種類によっては、御本身はそのまま現職に留まり給い、その分魂が謫仙として人間界に出られ、或いは山人界の一僧正として一つの仙境を主宰されるようなこともあり、幽界のこうした消息は、簡単に人間的俗識で思量することを許されない複雑性を持っています。 #0118【大国主神の幸魂奇魂】>>
 神集岳の官属である川丹先生が杉山清定君の御前を畏(かしこ)み謹んで拝し、また謫仙としての杉山僧正が、一山人僧正として川丹先生の命を受けて民家を焼き払うなどといったことも格別矛盾することではなく、このようなことは、神仙界においては極めてはっきりした規律の下(もと)に行われているようで、人間的俗情で矛盾を感じるような環境が全く矛盾なく統制されているところがいわゆる天機たる所以(ゆえん)でしょう。
 また、清浄利仙君によれば「嘉津間(かつま、寅吉のこと)が杉山山人の使いとなり、清玉(幸安)が赤山の仙使となったのも皆訳のあることである」とのことですが、杉山僧正と高山寅吉は太古の昔から深い縁で結ばれていることが分かります。 #0254【『幽界物語』の研究(24) -平田篤胤大人のこと-】>>
 さらに杉山清定君が、在世中に杉山僧正を師仙と仰がれた平田篤胤先生と水位先生との対面の機会を与えておられることも一奇で、平田先生が在世中、「日々津高根王命(ひびつたかねのみこのみこと)」と称えて毎朝神拝を怠らなかった神仙と杉山清定君の御本体とは無関係ではなく、この尊神の正式な御神名は天之息志留日日津高根火明魂之王命(あめのおきしるひびつたかねほあかるたまのみこのみこと)杉山清定全君と称することが水位先生によって伝えられています。

「明治九年十月一日、清定君に伴はれて神集岳に至る。この時平田先生に対面す。先生は今、大永宮の内、衆議官に居られ、御名を羽雪(うせつ)大霊寿真仙と申す。」『幽界記』

 平田先生は伊勢国・海幽山の神仙と成られていることが『幽界物語』中に見えますが、その御本身は神集岳の尊官であり、その分魂神が海幽山仙境を主宰されているものと拝察されます。
 なお、水位先生も初めて杉山清定君に拝謁された時のことは余程心に留められたようで、明治八年の六月十日(この時、水位先生は二十二歳の青春時代でした)、浦戸・龍王宮で川丹先生に御会いした時、そっと御伺いをされています。

「この時、余(よ)問ふ、「清定君に従ふ仙女に天癸(てんき)の穢ありや」、答ふ、「五百人の中、十八歳にて容貌を留むる女仙七十四人、これ月の穢なし。故に子もなし。その余の仙女は穢あり。その時は九日の間山を下りて平嘉の台と云ふ所に居る」と。」『幽界記』

 天癸とは女性の月経のことですが、高貴な神々の中に胎生神(男性神と女性神の合歓(ねむ)の道によって女性神の肉体から生まれる神)が坐すことからも、神集岳の女仙に月経があっても不思議なことではないでしょう。 #0049【化生神と胎生神】>> #0059【人類の祖先は本当に猿類か?】>>
 ちなみに、杉山清定君の側近の仙真と女仙の間に御子が生まれたこともこの時の話に見えますが、寿真達の間ではいつも仁義道徳惟神(かんながら)の道に関する硬派な話ばかりでもなく、色々な噂話も上るようで、それが女仙達となると矢張り御女性だけに一層肩の凝らない朗らかな話題に御賑わいのことと拝察される次第です。 #0250【『幽界物語』の研究(20) -女仙の姿-】>>

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