2018年9月28日金曜日

『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-

『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-
 
「『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-
父の神法を種々神々より授かりて、飛行の法をひそかに近き山に入りて修行し、海上歩行の法も行はんとしてその用意をしけるに、あまりに奇妙なる事を授かりし嬉しさに、神明に口止めせられし奇術を思はず信仰の諸士に語り、その御咎(とが)めによりて明治三年中風病を発して、神明より授かりし秘事は多く忘れたるに、折にふれては又人々に神明の授け給ひて秘しける事ども、不図(ふと)思ひ出て語りけるに、同十二年言語を止められ手足叶はずして、それより一言半句も出す事能(あた)はずして当年二十二年に至れり。
 これにつきては川丹(せんたん)先生に父の咎めを神等(かみたち)に赦(ゆる)し給はん事を依頼し、小童君(しょうどうくん、少名彦那神)にも父の病気平癒を祈り申せども、「明治三年に死すべきを生かして言語を止めたるなり。死して後に至れば又慈愛は本(もと)の如くに致すべし」と宣(のたま)ひて平癒の願は叶はず。悲哉(かなしいかな)。
 さて、父の秘密を語りてそれを聞き、妄(みだ)りにその法を行はんとして仙人ぶりて自慢しつゝ、己が自然に神明に通じ御教を蒙りたりと誇りし者二十九人ありしが、如何(いか)なる事にや二十八人は死して、今その一人は残りて家貧しくなり、今もこの世にありて売薬等せり。故に神明より授かりたる秘事は、死するとも洩らさぬが肝要なり。 #0244【『幽界物語』の研究(14) -神法道術-】>>
 さて、父・常磐大人の神明に奉仕せし間の勤めの艱難(かんなん)苦行せられし事は、神官中普(あまね)く無きが如く我ながらも覚ゆるなり。これは我が国人のよく知るところなり。我は父の万分の一もその勤め無くして神明に見(まみ)えしは、これ全く父の恩頼(みたまのふゆ)によるなり。 #0317【『異境備忘録』の研究(2) -手箱神山開山-】>>
 父は画を好みてその稽古もせし故に、神々の御形も多く写し置きけるが、中に大山祇命(おおやまづみのみこと)の眷属を率ゐ給ひて見(あれ)ませる時、御許を受けて写したりとて秘め置ける神像の図は、殊(こと)の外(ほか)に厳重なる御備立にて畏(かしこ)く見奉るなり。
 又、父の開山せし山は、予州・石鉄山(石鎚山)と牛角の如く屹立(きつりつ)して最高山なり。石鉄山は海神・三筒男神(みつつおのかみ)の鎮まり給ふ山、手箱山は大山祇命の鎮座にてこの宮は目今(もっこん、現在)郷社となれり。因(ちなみ)に云ふ、この山にも山人の住みて、夜に入れば山上の南方にて種々の噺声(はなしごえ)の聞こゆるなり。この山の天狗は一年替りに交替して伊賀国、(以下は欠文)」『異境備忘録』

 神伝によれば、大山祇神は神代第二期において火神の神体より化生した天津神であり、また小童君・少名彦那神は宇麻志葦牙比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の分霊神ですので、本来は人間界とは没交渉の宇宙的な神霊であり、人間界に出生して現界在世中にこうした尊神に見(まみ)えるという破格の立場を許される御方は古来極めて稀有といえますが、それには訳のあることでした。 #0116【二神の国造り】>> #0179【人寿が短縮された訳】>>

「川丹(せんたん)先生は、その根元は神界にて水位と同官同位なりしが、水位、冥官の掟を誤り神界を退けられし事久しきが間に、川丹先生は位階も進み、退妖官(たいようかん)中の員列三十六等紫上の中位と云へるに至りて、大霊寿真人(たいれいじゅしんじん)よりは二十七階ほどの上位にて、その上に智識明達にして神界にても名誉ある川丹先生なれば、再び神界に出入りの赦(ゆるし)を受けてよりは師仙と仰ぎ敬ふなり。水位の根元神界に出入りせしは十歳より小童君に伴はれしが始めなり。」『異境備忘録』

 つまり、水位先生が尊貴なる天津神の御寵愛を受けられたのは、先生が普通の人間ではなく、現界出生前、既に神仙界において大霊寿真の位階に在られたからですが、水位先生の現界御出現は単なる先生の贖罪ということだけでなく、その謫命として幽真界の実相を人間界に招来し、天運の循環に応じて幽中神秘の開展を図ることが目的であったものと窺われます。
(日本古学によると、神武天皇の即位によって「神代」から「人代」へ移行し、さらに明治天皇御即位の頃から「人代第二期」に変遷したとされていますが、「神人顕幽一致」の「神代文明」というべき霊的文明期への移行が着実に遂行されているものと思われます。 #0275【『幽界物語』の研究(45) -人霊の行方-】>> #0284【『幽界物語』の研究(54) -日本の行末-】>> )
 また幽界の位階については、『至道物語』中で山中照道寿真が河野至道大人に「この度、北天にて皇国の仙と外国の仙と称を御改めに成りたり。これまでの天仙を天寿、地仙を地寿、神仙を寿神、仙人を寿人、大仙人を大寿真、小仙人を小寿真と御改めに成りたり。我も大仙真を御改めありて大寿真と改めたり。外国は天仙・地仙・神仙・仙人・大仙人・小仙人とこれまでの通り、以来この称号心得べし。また、生きながらの仙も尸解(しか)の仙も称号共に寿真と称すべし」と語られており、神仙界において位階の改訂等も行われていることが分かります。 #0169【神仙の存在について(7) -神仙得道の法-】>> #0235【『幽界物語』の研究(5) -幽界の位階-】>>

 さて、常磐先生は『万葉集品物図解』等の著作があるように画道にも精通されていましたが、先生が大山祇神の御許可を得てその御神姿を謹写された御神像図は一部の篤信の道士に写図の拝戴を許され、その御神威によって諸々の奇異が示現されたことが伝えられており、これは尊き御神姿の真形図がそのまま御霊代(みたましろ)となることを意味しています。 #0260【『幽界物語』の研究(30) -書画について-】>>
 また、こうした高貴な天津神がその御神姿を人間に真写させ給うというのも通常では有り得ないことで、このことは常磐先生も水位先生と同様に、何らかの使命を果たすべく神仙界より派遣された仙であったことを如実に示しているといえるでしょう。

 その常磐先生が、ふとした機縁で禍根を残してこうした結末を招いたことは、余りにも痛々しい前者の轍(てつ)として後進の道士が深く自戒すべきことではありますが、「明治三年に死すべきを生かして言語を止めたるなり」というあたりに妙な不自然さが窺われ、明治二十三年一月十五日、七十二歳を以て尸を解かれるまでの二十余年に亘る常磐先生の病廃生活は、単に神々より口止めされた飛行の法や海上歩行の法を門人たちに禁を犯して授けたということだけで片付けられるものではありません。
 これは「仙は類を知る」とでも申しましょうか、水位先生と同様に神仙界より派遣された常磐先生であれば、我が子の前身や禍咎を負って謫仙として人間界に出生したという事情も御存知だったはずで、ならばその霊的活動を全うせしめるべく、我が子のために「生ける身代わり」として贖罪を引き受け、犠牲の病床に伏せられたというのが真因であったものと思われます。
(常磐先生が水位先生の勉学には特に力を注がれ、幼少の頃より脱魂法によって手箱仙境に導かれたことからも、このことが窺われます。 #0316【『異境備忘録』の研究(1) -概略-】>> )

 余りにも凄絶にして余りにも壮絶な犠牲ではありますが、水位先生が何度も「これ皆父の恩頼によるなり」と繰り返し記されているのもそのあたりを含めてのことで、常磐先生と水位先生は二人にして一人とでもいうべく、二人一体の神業が水位先生の神通の真相で、愛児の前身を知り、その現界出生の幽契を悟られ、あえてその謫業に代わって人天の大義を貫かれた父と子の至情に対して尊き神々もそれに応え給い、地上開闢以来の大偉業が成し遂げられたものと拝察されます。

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