2018年9月27日木曜日

『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都ー

『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都
   
  「幽界の大都は第一・紫微宮(しびきゅう)、第二・日界、第三・神集岳(しんしゅうがく)、第四・万霊神岳(ばんれいしんがく)なり。されども常に幽政を行ふ法式を定むる所は神集岳なり。」『異境備忘録』

「幽界は八通りに別れたれども、又その八通りより数百の界に別れたり。然(しか)れども宇内の幽府は第一に神集岳、第二に万霊神岳なり。」『異境備忘録』

 古代中国の文献『雲笈七籖』(うんきゅうしちせん)には、「太一真君(たいいつしんくん)は北極大和の元神なり。神通変化、北極紫微宮より天地の間に経過し、万物を滋育す。天に在りてはすなわち五象明らかなり、地に在りてはすなわち草木生ず」とありますが、この太一真君とは天之御中主神のことですので、つまり紫微宮とは日本の神典に見える「別天(ことあめ)」に存する宮殿のことで、古代中国の天文学で北極星のことを「紫微星」、その北極星を中心とした天区を「紫微垣(しびえん)」と称したのも天機が漏れ伝わったものでしょう。 #0033【「別天」とは?】>> #0100【世界太古伝実話(9) -道教に見える日本の神々-】>> #0210【神道宇宙観略説(1) -宇宙の大精神-】>>
 日界は太陽神界のことで、日本の神典では「高天原」として伝えられていますが、太陽は古代より世界各地で崇められ、中でも「太陽の消失」にまつわる神話は世界中に散在し、その多くは太陽神が月神と敵対したことが原因となっています。 #0076【須佐之男命の乱行】>> #0078【天石屋隠れ -三種の神器の起源-】>>

 さて、「神集岳」「万霊神岳」というような神仙界の存在は、日本の神典はもとより世界のあらゆる古伝承にも見えず、それが些細な一仙境というのならまだしも、宇内幽府の根本中府であるところに在来の古学や玄学の知識のみでは理解し難い趣があり、一種奇異の念を生じるのは人情の常でしょう。
 しかしながら、古今の文献に傍証のない存在であればこそ、よりその作為的なものではない真実性を直感し得る深理をも悟らなければならないはずですが、先入主となる通念から考えて、誰にでもその理(ことわり)を求めることは困難であり、水位先生もこれらの神界の実相を公にすることについては常に慎重な態度をとられ、よほど道骨の門人でなければ語られることはありませんでした。
 千古秘せられた最高神界の実消息を神霧を開いて人間界に伝えられるというようなことは、まさに地上開闢以来の一大事といえますが、それを公にする時節については水位先生も深く遠く後代を慮(おもんばか)られたようで、家牒の中に子々孫々への遺言として、「祖先以来代々に著す書類は当時迂遠(うえん)の論説ありとも決して遺失せず、霊舎の傍らに貯蓄して常に虫の害無きを慮るべし」と記されています。
(「神集岳」や「万霊神岳」という名称そのものが余りにも安易なネーミングではないかという疑念を持たれる方は、そもそも現界で用いられる文字は幽界より伝えられたものであるという事実を忘却しているものと思われます。 #0242【『幽界物語』の研究(12) -幽界文字の存在-】>> )
 『至道物語』には、明治九年七月七日の夜、山中照道(やまなかしょうどう)大寿真が吉野山の仙窟から肉身を挙げて昇天されたことが記されていますが、明治六年の頃には神集岳への出入りを許されたはずで、宮地厳夫先生も『本朝神仙記伝』中の河野至道寿人の伝記の中でその事に言及されていますので、その一節を抄出してみたいと思います。 #0164【神仙の存在について(2) -『本朝神仙記伝』のあらまし-】>> #0165【神仙の存在について(3) -河野至道大人のこと-】>>

「(山中照道)大寿真の御咄に、我、三年前、御用有りて北天へ昇り、都へ入らむとする時、その門に恐ろしき神坐(ま)しまして厳しく尋問せられし故、御用の次第を申しければ、御符(通用切手なるものの由)を渡され、それより都の中へ往来自由にて入りて見しに、神真の宮殿、古昔(いにしえ)より年々に増加して、今はその数無数に成り居るとの仰せにてありしとぞとも、また山にて天満宮の御事を伺ひしに、北天に御住みになり、三年前北天へ昇りし時、御宮殿へ参りしに、実に美しく大にして広きこと計られず、それぞれの間に各司神坐して、拝謁等のことは中々容易に叶はざるなり。昔は十六万八千余の神々を司り給ひしとあれど、今は数千万の神々を預かり給ふとぞとも。」 #0281【『幽界物語』の研究(51) -菅原道真公のこと-】>>

「寿真の称号を得る時は、北天の御使を勤むることの成るものなりと申されしとぞとも見えたるを始め、また世界は三千世界に止まらず数万の世界の有ることを云はれたるの類、凡(およ)そ四、五十箇条も有れど(後略)」

「今、挙げたる『至道物語』の中に就(つい)て、(山中照道)寿真が「北天」と云はれたるは、或(あるい)は「神集岳」と云へる神仙界のことにはあらざるか。それは、我が道友・水位霊寿真は名師に伴はれてしばしば神仙の幽境に入り、彼(かの)界のことには精通したる人なり。その著に係る『異境備忘録』に、「幽界は八通りに別れたれども、その八通りより数百千の界に別れたり。然れども宇内の幽府は第一に神集岳、第二に万霊神岳なり」と云ひ、またその神集岳は、「大国主神、少名彦那神等の掌り給ふ所にして、その入口に見麗門(けんれいもん)と云ふ門有り、その門を入りて行くこと数里にして、また六元門と云ふ有り、この門に数多(あまた)の警官有りて判鑑符(はんがんふ)を検査し、符無き者は通行を許さず」と云ひ、またこの界に荘厳なる宮殿の夥(おびただ)しきこと、また特に菅公即ち天満宮の広大なる宮殿の有ること等、明細にこれを記し、且つ水位真が由(よし)ありて幽許を蒙り、その神集岳の真形を写し来れる図もありて、余(よ、厳夫先生)もこれを拝見したるに、照道寿真が至道に語れるところと実によく符合するもの有るに似たり。然れば、その「北天」と云へるは、或は神集岳にはあらざるかと余が考ふるも理なきにあらざるなり。」

 思うに山中照道大寿真が「北天」という仮称を用いて河野至道寿人に告げられたのは、「神集岳」という実称を漏らしてはならない理由があってのことでしょう。

 ちなみに、厳夫先生も後年には神集岳神界に出入りされたのですが、明治十一年七月七日、厳夫先生が手箱山へ参篭されるべく潮江の宮地家に立ち寄られた際、神集岳真形図を厳夫先生に授けられ、丁寧に細かく指示を与えられたのは水位先生の厳父・常磐先生であったことが伝えられています。 #0317【『異境備忘録』の研究(2) -手箱神山開山-】>> #0318【『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-】>>

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