2018年9月22日土曜日

『異境備忘録』の研究(8) -青真小童君-

「少名彦那大神は変化無比の神にして、伊邪那岐尊の代理として大司命左定官にして、常には髪は垂れて腰に至り、十二歳ばかりの御容貌にて、背に太刀を佩(は)き団扇を持ち、青色の衣を着給ひ、御腰の左右に幅六寸ばかり、長さ五尺ほどの平緒の黒白を六筋ずつ、左右に着け給ふ。」『異境備忘録』

 『幽界物語』中で島田幸安が少名彦那神に拝謁した時のことを「お姿のほどは、童形でご出現在らせられました」と述べており、『漢武内伝』にも「青真小童君(せいしんしょうどうくん)は形、嬰孩(えいがい)の貌(かお)あり。故に仙宮に小童を以て号(みな)と為す。その器たるや玉朗洞徹(ぎょくろうどうてつ)にして聖周万変(せいしゅうばんへん)、玄鏡幽鑑(げんきょうゆうかん)にして才真俊たり」とあるように、その御神姿は水位先生の記述と一致していますが、さらにインドの古伝にも「梵天子(ぼんてんし)」或いは「童子天(どうしてん)」と称される神の存在が伝えられています。 #0249【『幽界物語』の研究(19) -神々のこと-】>>

 また、日本の神典では、少名彦那神は「皇産霊神の指間(たなまた)より洩れて天降り給ひし長子(みこのかみ)」と伝えられており、道蔵では、『太上真経』に「青真小童君は天一の長子なり。然(しか)りと雖(いえど)も生子にあらず。天一の精霊感動変化の長子にして大司命(だいしめい)の真官たり」、『真玄経』には「東海小童は九天の真気、天一の生霊凝結して神と為る。これ万仙の主たり。又、泰一小子(たいいつしょうし)と曰(のたま)ひ、又、太清方諸青華小童大神と曰ふ」と録し、また、『神仙真一経』には「泰乙元君(たいいつげんくん)は元始天王(げんしてんのう、高皇産霊神)入室の弟子にして泰一小子と曰ふ。又、号(なづ)けて大乙小子と曰ふ。東海大司命神の神仙王なり」、また『漢武内伝』にも「青真小童君は元始天王入室の弟子なり」として、北天神界(北極紫微宮)直系の天津神であることが紹介されていることからも、少名彦那神が「天地開闢の初め葦牙(あしかび)の如く萌騰(もえあが)れるものに因(よ)りて成り坐(ま)せる宇麻志葦牙比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の分魂神」という説も決して荒唐無稽ではないでしょう。 #0116【二神の国造り】>>

「明治九年一月十九日夜、小童君に伴はれて蓬宮(ほうきゅう)と云ふ所に至る。この宮は得道して仙列に加はる者皆参集して太玄符(たいげんふ)を授かる。蓬宮の側に小理宮(しょうりきゅう)あり(これは神集岳の小理宮とは異なり)。これは上古、小童君の右令大司命の官に在りける時、太玄符を授け給ひし宮と云ふ。」『幽界記』

 神集岳真形図を拝見すると、大永宮の東南に青真小童君の御常殿である小理宮が位置していますが、水位先生が小童君に伴われて神集岳とは異なる古来玄家で著名な神仙の大都に赴かれ、その幽府である蓬宮に入られたのは当時水位先生二十三歳の頃でした。この一条は玄学を学ぶ徒にとっては非常に注目すべき消息ですので、道蔵上の文献を二、三摘記して考究してみたいと思います。 #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>
(中国の人文開化の淵源は日本に次いで古く、仙道も古代より普及して古来多くの神仙や仙人を輩出し、道書類にも神仙界の実相が漏れ伝えられたと思われる記述が数多く存在しています。 #0094【世界太古伝実話(3) -最も早く開けた国-】>> #0100【世界太古伝実話(9) -道教に見える日本の神々-】>> #0119【万国を開闢せし皇国の神々】>> )

 道家で三神山と称して尊仰するのは方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)、蓬莱(ほうらい)の三神仙境ですが、その存在は周、秦以前の古書にも見えますので、その伝承は相当に古いものです。
 この三神山の内で、方丈洲のことを少し覗いてみますと、まず『十洲記』に「方丈は東海の中心にあり。西南東北の岸正等、方丈方面各々五千里、上は専(もっぱ)らこれ群竜の聚(あつま)る所なり。金玉(きんぎょく)之室あり。三天司命(さんてんしめい)所治の処、群仙の昇天を欲せざる者は、皆この洲に往きて太玄生籙を受く」とあり、『中玄録』には「小童君は東華方諸扶広(とうかほうしょふこう)の仙宮を治めて始運を権(はか)り、玄圃(げんぽ)に遊びて仙職を領す。故に仙を得る者は皆扶広の仙宮に来り、小童君を拝して太玄生籙を受く」、『霊函記』には「東行して啓明の滄海(そうかい)を渡り、広桑山(こうそうざん)に登リ、始暉(しき)の庭に入りて大司命小童君に見(まみ)え、三品(さんほん)の簿籙(ぼろく)を受けて昇天す」、『集異記』には「東海小童君は青衣を服し扶広山の小璃宮(しょうりきゅう)を治め太玄生籙を以て得道の仙客に受けしむ」、『金根経』には「太上大道君(だじょうだいどうくん)、大洞真経を以て上相青童君(じょうそうせいどうくん)に付し、籙を東華青宮(とうかせいきゅう)に掌りて、後聖の応(まさ)に真人(しんじん)と成るべき者に伝えしむ」、『南貞説』には「大方諸宮は青君常治の処なり。その上、人皆、天真の高仙、太極の公卿(こうぎょう)にして諸司命所有の処、日月の光芒を服して已(すで)に得道の真人たりと雖(いえど)も猶(なお)故(ことさ)らにこれを服す。東華青童君は大司命総統なり」等とありますが、これらは何れもしかるべき神仙等によって伝えられた神仙界の実消息が甚だしく訛伝することなく伝承されたもので、方丈洲はまた扶広山とも浮広山とも広桑山とも方諸山とも称して伝えられています。
 そして『十洲記』に見える「金玉之室」は、『金根経』では「東華青宮」、『集異記』では「小璃宮」、また『南貞説』では「方諸宮」とも呼ばれ、『漢武内伝』の西王母の語にも「方丈の阜(おか)に理命(りめい)の室を為(つく)る」とあり、「理命」と「司命」は同義ですので、この幽宮は三天太上大道君(さんてんだじょうだいどうくん)伊邪那岐神の代命として小童君少名彦那神が、得道の真人のために神仙の生籙(太玄生符)を授け給う所であることが分かります。
 さらに『紫書金根経』には、「東華方諸青童宮に六門あり。問内周回三千里、東に青華門あり。西に玉洞門あり。北ニ瓊門(ぎょうもん)あり。南に寒水門あり。東南ニ大関門あり」とあるように、この真宮の規模の壮大さが窺われます。

 玄学家は少名彦那神を東海大神仙王金闕上相(きんけつじょうそう)大司命青真小童大君と称え奉りますが、これはその御神徳の上からこのように称されることで、東海上の大神仙界である太上大道君伊邪那岐大神の幽府を預かり治めて神真の生籙を司り給う棟梁の大神仙であることより東海大神仙王の御称号があり、また金闕上相と称え奉るのは太上大道君の司直の中で最高位の上相である御位置であるためで、太上大道君を御別名「金闕帝君」と称するのは、玉京山紫微宮(北天神界)の三天金闕宮に坐すからです。 #0228【尸解の玄理(7) -神・人の別-】>>
 枕中書の『真記』に、「玄都玉京は七宝の山なり。周回九万里、大羅之上に在り。城上に七宝の宮あり。宮内に七宝の玄台あり。上中下の三宮有りて一宮城の如し。上宮はこれ元始天王(げんしてんおう、高皇産霊神)、大元聖母(たいげんせいぼ、神皇産霊神)の所治なり。下宮は太上道君金闕帝君の所治なり。中宮は九天真王(きゅうてんしんおう)、三天真王(さんてんしんおう)の所治なり」とありますが、北天神界の実相の一端が洩れたものでしょう。 #0319【『異境備忘録』の研究(4) -幽界の大都-】>>
 『日本書紀』には、「伊奘諾尊、功(こと)既に至りぬ。徳(いきおい)また大きなり。天(あめ)に登りて報命(かえりごとまお)し給ひ、仍(よ)りて日之少宮(ひのわかみや)に留まりて寂然(せきぜん)として長(とこし)へに隠れましき」と伝えられていますが、伊邪那岐大神が報命に登られた天というのは皇産霊神の坐す北天神界(玄都玉京山)に他ならず、従って伊邪那岐大神が留まり給うという日之少宮は、つまり玄都玉京三宮の中宮である金闕宮であることは推断に難くないところで、かくしてその御本体は寂然として別天(ことあめ)に隠れ給い、伝道の幽政を金闕上相である大司命神・青真小童君少名彦那神に委ね給い、小童君がその後の宇内許多の神仙界を組織され、実質的にその統制を任じられている所以(ゆえん)もここに存するものと思われます。 #0033【「別天」とは?】>> #0070【須佐之男命による地軸の傾斜】>> #0322【『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-】>>

 それにしても、上記の『異境備忘録』及び『幽界記』の記述をよく比較すると、小童君が上古、小理宮において得道して仙列に加わる真人達に太玄生符を授けられた時は右令大司命の官で、水位先生が伴われた明治九年の頃は大司命左定官となっており、こうした宇宙的な大神霊にも位階の進位というものがあることが窺われます。
 また、上古の世に小童君が太玄生符を出された頃は小理宮で行われていましたが、今は蓬宮において行われるように改定されていることも分かりますが、神政は人智の及ばない遥か高次元界において粛々と行われているものと拝察されます。

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