2018年9月18日火曜日

『異境備忘録』の研究(12) -神仙界の御掟-

『異境備忘録』の研究(12) -神仙界の御掟- 

「明治元年の頃、川丹先生に伴はれて空中を飛行するの砌(みぎ)り、雲霧の中を凌(しの)ぎ行きけるが、東南の方より螺貝(ほらがい)の音高く響き来るあり。川丹先生の云ふ、「饒速日命(にぎはやひのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと)の御通りなり」とて、拝しける間に螺貝の音近くなりしが、雲霧忽(たちま)ち晴れたるに金光のキラキラとして乾(いぬい、北西)の方に鳴り行きたり。
 川丹先生の云ふ、「饒速日命と五十猛命は幽冥界にて螺貝を吹き給ふが御職なり。この神の螺貝の音を聴く時は、その後とても幽府の神楽の音も深更(しんこう)に及びては遠音に聴かるなり」と云へり。さて、かの金光の通りし後は又雲霧となりたり。
 川丹先生の云ふ、「螺貝は雲を払ひ神言を遠きに告る用なり」とて、飛行するほどに又乾の方より以前の如く金光の中に螺貝の音しけるが、又も雲霧忽ち晴れ、金光の後に螺貝に鰭(ひれ)のある物数十連れ立ちて従ひ飛び行きけり。」『異境備忘録』

 饒速日命は長髄彦(ながすねひこ)が奉じた神で、後に神武天皇に帰順されたことが『古事記』に見えますが、『日本書紀』によれば、神武天皇の御東征に先立ち、天照大御神から十種(とくさ)の神宝(かむだから)を授かり、天磐船(あめのいわぶね)に乗って河内国の河上の地に天降り給いし神とされており、つまり神武天皇を補佐するために秘かに高天原(太陽神界)より派遣された天津神であることが分かります。 #0170【初代天皇命、定まる】>> #0188【神倭伊波礼毘古命の誕生】>>
 五十猛神は別の御神名を禍津日神(まがつひのかみ)、また大屋毘古神(おおやびこのかみ)とも称しますが、神代第二期の伊邪那岐神の禊ぎ祓いの際に成り出でた化生神で、その分魂は常に須佐之男命と行動を共にする天津神とされています。 #0049【化生神と胎生神】>> #0084【五十猛神の功業】>> #0110【大屋毘古神のカムハカリ】>>

「明治四年十二月晦日(みそか)夜明け方、小童君に伴はれて北氷洋を過ぎたる時に、氷海を過ぎれば氷山あり。その北岸より幾千仭(いくせんじん)を知らず大滝数ヶ所に下り、その光月の如く空に映じ寒気最も強く、この所を過ぎ行くに西南と思ふ方より音楽の音して、東北に過ぎるを見る。
 女神に随従の神、千余ばかりも付きたり。小童君と出会ひし給ひて互に慇懃に礼を述べ給ひて別れ給ふ。小童君に伺ひければ、「須勢理姫神(すせりひめのかみ)なり」と宣(のたま)ひけり。この神、御年三十歳ばかりに見え給ひて、御面(みおもて)美(うるわ)しく坐(ま)しまして、御頤(みおとがい、御下顎)は少し長き方に見奉りき。
 又行くほどに暖気の所にかゝりて、下に黄黒き色を見て、又寒き所を経て、又暖所にかゝり、海面を下に見て行くまにまに、漸々(ようよう)降りて一つの島に着きてければ、こゝにて休息す。小童君宣(のたま)ひけるは、「地球を一周回したり。この所は琉球の属島なり」とて、暫くしてこゝを立ち土佐国へ帰る。それより我が家に送り給ひしは一月一日の黎明なり。」『異境備忘録』

「明治八年四月十日、玄丹先生に伴はれて神集岳・方義山の大永宮に至る。この日は列仙会合の日に付、五十余仙に拝謁す。その中に利仙君は孔雀の尾を以て冠とす。王母は孔雀形黄金冠を頂く。高位の仙は皆刀剣を帯び、腰に三つの玉を付け、令と云ふ物を持つ。夜に入りて酒宴。」『幽界記』 #0321【『異境備忘録』の研究(6) -神集岳の形状-】>>

「現名・藤原平次、幽名・清浄気玉利仙大君(せいじょうきぎょくりせんたいくん)は常に九州の山中に居して、従者も多くある中に、浄伊白龍道異人、現名・劉燕渓、清玉異人、現名・劉応明、清達胆方異人、現名・諸葛潜良、清観法当異人、現名・許湯清、清長立異人、現名・楊寉明、清泉谷異人、現名・劉能道、利法異人、現名・張全了、清通異人、現名・文玄角、清道井華異人、現名・応伝仲、清山方治異人、現名・呉伯景、清方日龍異人、現名・墨孔易等は支那国の産(うまれ)なり。
 清角陽異人、現名・弘井権大夫藤原親春、三清五位異人、現名・佐伯次郎高綱、奇見異人、現名・高井三郎行国、利清行異人、現名・堺六郎左衛門宗幸、浄玉道異人、現名・吉永熊三郎、清玉心異人、現名・島田幸安重信、沢林浄玉異人、現名・山崎八九郎基信等は日本の産なり。
 この異境中の巻物の文字は、○○○○○○○○○○○○等書ける秘文の長句あり」『異境備忘録』

 清浄利仙君は、地界においては赤山と呼ばれる仙境を主宰され、島田幸安(清玉心異人)を通じて参澤明先生を啓導された神仙で、詳しくは『幽界物語』にその御消息が見えますが、神集岳にも出入りされる高仙であることが分かります。 #0233【『幽界物語』の研究(3) -幸安の師・清浄利仙君-】>>
 「王母」とは西王母・須勢理姫神のことですが、清浄利仙君ほどの高仙がその御神号を認(したた)めることを憚(はばか)られるほどで、神集岳及び万霊神岳を主宰し給う青真小童君・少名彦那神と互に慇懃に礼を述べ給うあたりからも、幽冥大神(かくりよのおおかみ)である夫神・大国主神と共に高位の尊神であることが窺われます。 #0107【大国主神と須勢理姫神の運命的出会い】>> #0252【『幽界物語』の研究(22) -出雲の大神-】>> #0322【『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-】>>

 水位先生が神仙界に出入りされたのは十歳の頃からで、年少時より高貴な神々に接見されていた先生にとって、人間どもが卑賤に見えて仕方がない時期があったとしても、それは致し方のないことでしょう。 #0318【『異境備忘録』の研究(3) -父子二代の神通-】>>
 宮地家に出入りされる多くの家庭教師達に対しても、決して「某先生」とは呼ばず、「山中」「吉岡」等と呼び捨てにされたようで、まず書道教師の志和氏と吉岡氏がすっかり憤慨して家庭教師を辞任してしまいました。先生が年譜に「習字僅か八ヶ月、その後習字せず、故に頗(すこぶ)る鈍筆拙劣なり」と記されているのはそのことで、晩年にもこのことを追憶されて、このために著述に関して生涯においてどれくらい損をしたか知れないと述懐されています。
 先生は後になって深くこのことを悔い改められましたが、年少時よりその気鋭は生涯変わることなく、しかも武道で鍛えられた堂々たる体躯の持ち主で、さらに眉目秀麗な好男子であり、音声も朗々として真っ向から直言的に痛快な言葉で話される方であったことは、宮地厳夫先生の令息・威夫先生が父君より承っているところです。 #0316【『異境備忘録』の研究(1) -概略-】>>

「神仙界に初めて入りたる時は尊き神等の御側近く参りて、御慈愛を蒙(かがふ)る事もあれど、度々参り出る事の重なる毎に、その御界の掟など漸々(ようよう)に知るが随(まま)に遠ざかり、後には御側近く参ることも尊き御位に恐れ、且つその御掟によりて近くは参る事叶はざるなり。この界、人間の位は役に立たざるなり。
 御側近く参る程は、天地開闢よりして後の絵巻、諸々の真形図、八散結界八定秘中霊文、八散後連八会上下飛文を始めて古今神階列図など題したる物を拝見する事も得るなり。然(さ)るを我が神仙の位階定まりて、容易(たやす)く拝見し難きは更にて、その題名をだに拝聞する事叶はざるなり。 #0325【『異境備忘録』の研究(10) -諸真形図-】>>
 初めて神仙に伴はれ参る時は、その御界の掟をば少しも知らぬものにしあれば、必ず奇妙の霊物を拝閲する事多し。又、位階定まりて後は、上古より今日に至るまでのこと、又天地間にあらゆる物及びその理(ことわり)をも明らかに極むる事は更にて、自由自在なる事もその御界にある内は儘(まま)なれども、人間界に帰りては一つも自由ならず。その御界にありし程の奇妙なる事は忘れ果てゝ、人間に洩らして閊(さしさわり)なき条のみ夢の如くに覚えたるものなり。」『異境備忘録』

 利(き)かん気一本の十歳の少年である水位先生の神仙界入りは確かに異彩というべきであり、行く先々で高貴な神祇大仙や女仙達から破格の御愛慈を蒙られたので、紅顔可憐で恐れを知らない天真爛漫の異童が、相当どころの仙真達に対して伯父さんや伯母さん並に慣れ親しまれた御姿を想像すると、自然に微苦笑を禁じ得ません。
 さて、「この界、人間の位は役に立たざるなり」とありますが、『幽界物語』中でも島田幸安が「幽界に入っては王侯も庶人も同じです。人界の官位は人間一世のもので、仙境に入る者は皆いったん位階を離れます。人界での修学神信心の道徳によって、その位を定めることになっています」と語っています。
 また、幽界では厳格に位階が定められ、様々な掟が存することが『幽界物語』中に見えますが、神仙界においても厳律が存することが窺われます。 #0235【『幽界物語』の研究(5) -幽界の位階-】>>

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